2020年4月5日 朝礼拝 『ユダヤ人の王なのか』大賀幸一牧師

創世記22:1-18、ヨハネ18:28-40

1)汚れないで過ぎ越し祭を 
 受難週を迎えました。イエス様が逮捕された木曜日から処刑される金曜日に向けての出来事です。イエス様の弟子たちはもう既に誰もいません。みんなイエス様を見捨てて逃げてしまいました。先の大祭司アンナスのところに連れて行かれたイエス様。そして現在の大祭司カイアファの前に引き出されて、ユダヤ人議会が開かれました。イエス様は神様を冒とくした罪で死刑判決を受けました。そこから、今日のヨハネ福音書にあるように、当時のユダヤ地方の責任者、ピラトの官邸に早朝連行されました。誰もがそうですが、イエス様の命に関して誰もが責任を負うことはありません。誰もがイエス様を犠牲にして逃げ出し、見捨てて、自分だけが助かろうとしているのでした。ユダヤ人大司祭たちは、大事な過ぎ越しの祭りが、異邦人と接することで汚されずに祝うために、邪魔なイエスを消し去るために、自分たちではなくローマ人によって処刑してもらうためにピラトのもとにやって来たのです。ピラトも何故か恐れを抱いています。どう考えても無実の一人の男をユダヤ人たちのために処刑するのは嫌でした。誰もが、イエス様の命に責任を持つことができる者はありません。

2)やはり王なのか 
 総督ピラトは、イエス様に対して度々質問しています。お前は誰なのか?お前は何をしたのか?お前は王なのか?イエス様は逆に、あなたはどう思うのかと聞き返しています。イエス様はあえて謎を深めるような言い方をしていますが、ご自分について明らかにしています。私はこの世界の王ではなく、この世界は私の国ではない、と。つまり、私の国は、神様の造られた世界であり、それこそが私の国、その国の王は私だ、と示されています。ピラトも、やはり王なのか、と気づいた通りです。しかし、イエス様は、私は真理について証しするために生まれ、遣わされた。真理に属する人は私の声を聞く、とはっきりおっしゃっています。イエス様の真理、それはイエス様が行くところにあなたたちは誰一人として来ることができないこと、私を独りぼっちにするということです。誰もがイエス様の命を守ることも責任を負うこともできない所にイエス様を追いやることです。今の私たちのようなところです。誰もが怯え、恐怖し、不安の中にある今日の私たちのようなところにあるのです。私たちには、イエス様が行かれたところに辿り着くことはできません。それでもイエス様はただ一人、私たちのためにその場所へと向かわれました。私たちは、イエス様以外に、イエス様の行くところに着いて行くことも従うことも出来ないことを認めるしかありません。まさにそれが真理です。

3)アブラハムとイサク 
 今日アブラハムが神様に命じられるままに、最愛の息子イサクを捧げようとしました。しかし神様が求めたのはイサクを殺すことだったのでしょうか。実際神様はアブラハムにイサクを殺させなかったのです。そしてその場所は、ヤーウェイエル、と呼ばれています。主の山に備えあり、です。神様は、愛する者の命が注がれることを求めているのではありません。神様を信じる者たちの、愛する者たちの命が保たれること、生かされることを、山において示してくださったのです。神様は私たちのために、備えてくださっているはずです。