2022年10月16日 朝礼拝『幸いである』大賀幸一牧師

イザヤ書25:1-9 マタイによる福音書5:1-12

  山上の説教の最初の教えは、心の貧しい人々は幸いである、という御言葉です。幸い、という言葉は、祝福のことです。神様が、人間たちに与える繁栄、幸福をもたらす神様の愛であり恵みを意味しています。それを得たなら人間たちは、その命と健康において、その財産や富においても大いなる繁栄と幸福を得ることになるのです。さらに祝福は、私たち個人が受けるような繁栄と幸福に留まりません。平和と正義の実現こそが神様の祝福と考えられて来ました。社会や世界規模に与えられる繁栄と幸福があるということです。そしてイエス様の祝福があります。イエス様は、私たちに霊的な祝福を与えてくださいました。この地上における繁栄と幸福だけに留まらないのです。イエス様はこの祝福を、弟子たちにも神の教会も相続し、継承して行くものとしました。貧しいという言葉から、何かが足らない、欠けていている、ということを想像します。しかしそうではありません。確かに貧しいことは事実ですが、心の貧しさとは、人間が自分でその貧しさを満たすことのできない貧しさなのです。自分たちではその貧しさを満たせないのですから、満たしてくださる存在を探し出さなければならないということなのです。それが、神様の存在、信仰が人間にいかに必要な事柄かを思わされます。さっさと神様が私たちみんなを祝福してくだされば良いのではないか、ということになります。しかしそうならない原因があるのです。一つには、神様の祝福に反対する力があるということです。私たち人間が完全に神様と一致できない、神様を信じられないで、いつもどこか疑っている。そんな神様と人間との不一致がずっとあり続けているのです。そして、人間そのものがこの地上にあっては限りある者です。私たちは、心の貧しい人々は幸いである、との道を進んで行きます。自分の力で、自分の貧しさを満たすことのできないことを私たちは知る者だからです。ただ神様だけが、私たちの貧しさを満たしてくださるのです。