2023年1月22日 朝礼拝『主の恵みの年を告げる』大賀幸一牧師

民数記9:15-23 ルカによる福音書4:16-30

  イエス様は安息日の礼拝で、イザヤ書61章を朗読して、この御言葉は今日あなたがたが耳にした時実現した、とおっしゃいました。私たちが御言葉を耳にした時にそれは実現する、とはまだ具体的な形は見えないのです。しかし御言葉を聴いた人々の耳の中で実現している。御言葉の実現はすでに始まっているとおっしゃっているのです。イザヤ書61章は、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるため、と書かれています。たくさんの苦しみに捕らえられている人々を解放する時が示されたということです。既にその時は来ている、始まっている、と。また、この主の恵みの年、聖書協会共同訳では、直訳として、主に受け入れられる年、と訳せると示しています。神様によって一方的に与えられる神様の恵みの時、そしてまた、神様によって受け入れられる、神様に愛される時の到来を示しているのです。そして人々は、神様は今日から私たちを愛してくださっているのではなく、ずっと前から神様は私たちを知り、私たちを愛してくださっていることを知る時となるのです。サレプタのやもめもナアマンも神様を信じていなかったし、信じたから恵みを受けたのではなく、神様がずっと前から私たちを知っていて、私たちを愛してくださっていたことを知るのです。ナザレの人々も、神様に愛されて、神様を信じる者です。ならばすでに神様に愛されているのですから、神様を愛して行くべきでした。今日の民数記に、荒野を歩む神の民の姿が描かれています。彼らはただ神様の命令、神様の御言葉を聞いて、荒野を進みます。神様の御心に適う良い人になるから神様が私たちを愛しているのではありません。私たちが神様を知らなかった時から、神様は私たちを見つけています。神様は私たちをずっと前から愛しています。私たちもこの神様を愛して、神様の御言葉を聴いて、荒野を歩んで行きましょう。