2023年11月19日 朝礼拝『名をモーセと名付けた』大賀幸一牧師

出エジプト記 2章1-10節 ヘブライ人への手紙 3章1-6節

  レビ族のアムラムとヨケベデ夫妻に新しいこどもが誕生しました。こんな暗闇の時代にもこどもたちは生まれて来ます。どうして、こんな希望のない暗闇の中にこどもが生まれてくるのか?人々は希望のない中にかすかな光を探し求めているからではないでしょうか。ヨケベデたちもその子がかわいかったのを見て、こどもをこのパピルスの舟に乗せました。モーセの姉はミリアムで、彼女は預言者でもありました。しかし聖書には彼女の預言は残されていません。ユダヤの伝説では、ミリアムの預言とは、私たちに男の子が生まれる。その子は私たちを救う者となる、という預言だったとされています。神様の預言はヘブライ人たちに希望を与え、こどもが生まれました。しかし3か月後こどもの命は風前の灯となったのです。アムラムも人々も、神様の言葉を信じることを止めました。信じても何も変わらない、どこにも希望がないのです。預言者ミリアムは、神様の御言葉を信じようとパピルスの舟を見つめていました。そこにやって来たのがファラオの王女です。葦の間に置かれている舟に男の子を発見します。王女はこのこどもがヘブライ人のこども、つまり殺される運命であると理解しています。王女はこの子を見てふびんに思ったとあります。王女の行為の源は、泣いているこどもを見てふびんに思った、という点です。それは神様の憐れみと同じではないでしょうか。神様の憐れみは危機にさらされている小さな命に注がれるのです。困難の中、危機の中、不安の中、人々は神様の御言葉を聞くことに失望します。それでも神様は約束を実現させ、私たちに希望を届けてくださいます。神様だけが働いているのではありません。ミリアムが、エジプトの王女が働いているのです。神様の預言を聞いたものが、命をふびんに思う者が、神様の御業を担うのです。イエス様がお生まれになった時、生まれるべき場所さえも用意されていませんでした。しかしイエス様は生まれてくださったのです。人間の希望、命となるために。御業を成し遂げるためです。