2016年1月24日 朝礼拝 『あなたたちの本当の自由』 大賀牧師

ヨブ記22:11-28、ヨハネ8:21-36

1)使徒信条に”陰府に降り“とあります。イエス様によって与えられた神様の救の業は、今現在だけに留まっているのではないということです。過去にも向け られている。そしてもちろん未来にも向けられています。過去、つまりキリスト以前に死んだ人々には救いは無いのか、という事に応えるものです。キリスト教 には仏教のように供養という考えはありません。すでに全く救われているからです。それはイエス様が来られて、神の子であるキリストご自身が私たちの為にそ の体を裂き、血を流してくださったからです。そしてイエス様の十字架と復活後の人間たちには、確かにイエス様が裂き、流してくださった命と血によって救い が立てられています。使徒信条には、イエス様が十字架にかけられて死なれた後、陰府に降った、と記されています。聖書的根拠としては、ペテロの手紙、ある いはマタイ福音書27章52節の墓から復活する人々の話しぐらいです。ですから伝説と考える人々もいるところですが、イエス・キリストによってなされる神 様の業がイエス様の時代に生きる人々だけの救いであったでしょうか?神様の御業は今も過去も未来にも及んでいると考えるのは間違いではないと信じます。

2)私の行くところに
 イエス様は、私たちに向かって、あなたがたは私の行くところに来ることは出来ない、と教えられました。ところがイエス様が十字架にかけられた時一緒に十 字架にかけられた人間が二人もいたではありませんか。又最近ではルカ福音書のイエス様と一緒に十字架にかけられたどちらかの者がイエス様と一緒にパラダイ スに入ったとされていますが、それも真実ではなく作り事だという人もあります。もしもそうであったとしても、それは大変残念なのですが、イエス様が教えて おられるように、人間は自分の罪のうちに死ぬ、という姿が益々はっきりと示された形となるだけです。人間はイエス様と同時に十字架にかけられてもそこで得 ることが出来るのは、自分の罪の内に死ぬ、ということだけです。自分自身の罪を認めようと認めなくてもです。只もし人間がイエス様と一緒に十字架にかけら れた時、自分の罪を認める者があったなら、イエス様はその人間を愛し、赦し、共にパラダイスに導いてくださいます。

3)人の子を挙げた時に
 ところがイエス様が赦された、神様が赦されたこの人間が、確かに今は心から自らの罪を悔い改めているとは言え、それまでに何人もの命を殺め、惨たらしく 奪って来たかを知っている者からするなら、この神様の赦しは正しいものでしょうか。今日の旧約聖書はヨブ記です。家族を奪われ、全てを失ったヨブに対いて 語りかける友人の言葉です。そして語る言葉は正しいです。「神に従い、神と和解しなさい。」しかし神様に見捨てられたと覚えている人間たちにとって、この 言葉は全く意味をもたないでしょう。神様がいったい何をしてくれたのか、何もしてくれなかった。ならば放っておいてくれ、ただ私たちから愛する者を奪い、 全てを奪った者たちを生涯決して許さず、憎むのです。イエス様はこの人間の憎しみをすべて自分の命に負って行かれました。イエス様は、「あなた方は私を上 げる時に、私はあるということを知る」と教えています。私たちがイエス様を十字架に上げる時に、色々な形でイエス様が教える、私はあるという事を知ること になるのです。以前教会の信徒の連れ合いが、教会で行われた葬儀の後、血相を変えて帰って来て言いました。お前たちはあんなグロテスクなものを神様と崇め ているのかと驚かれたそうです。彼が見たのは正に十字架にかけられたイエス様の姿です。その姿は、その人には無残なグロテスクなものと映りました。人間の これまでやって来た残忍さ、残虐さがそこに示されているのです。そのことを全て承知の上で、全てを受け入れて、イエス様は私たちのために十字架に上げられ たのです。イエス様は、真理は私たちを自由にする、と教えています。真理とは、それは神様の愛そのものです。私たちが皆神様に愛されている、これ以上の真 理はないのです。この真理が最も私たちを全ての束縛から解き放ち、真の自由を与えてくださるのです