2016年2月14日朝礼拝『もし私を拝むなら』 大賀幸一牧師

出エジプト17:3-7、マタイ4:1-11

1)レント
 先週2月10日灰の水曜日からレント、受難節に入りました。イエス様の十字架の道、受難を覚えて祈る時です。イエス様の後に従って参りましょう。さて、今日の聖書箇所は、イエス様が悪魔から誘惑を受ける、というものです。イエス様はわざわざ悪魔と呼ばれる者から誘惑を受けるために、荒野に無理やり連れて行かれたのです。何故イエス様が悪魔などから誘惑を受けなければならないのでしょうか。それは全てわたしたち人間のためです。訴えられたのなら、自らの潔白を証明しなければ、無罪になれないです。潔白を証明できなければ、私たちは有罪となって、牢獄に閉じ込められてしまう事になります。

2)審判
 私たちを訴える悪魔、ユダヤの人々はこの悪魔の正体は神様の創造された天使だと伝えています。神様が最も信頼している天使それが悪魔と呼ばれるものであると。その悪魔と呼ばれる天使がわたしたちを神様に訴えるのです。神様が豊かに恵まれるからこの人間はあなたを信じているだけに過ぎません。この者から全てをむしり取ってごらんなさい。すぐさまこの者は神様を呪うものと成り果てるでしょう。悪魔はイエス様にも言います。あなたがご自分の命をおかけになるほどのものでしょうか。この人間という生き物は、あなたの尊い命を犠牲になさっても、その恩義をすぐさま忘れてしまいますよ。こんな人間のためにあなたの大事な命をお捨てになるような価値などありまはしません。無駄というものです。あなたが命を懸けられても人間はこれからも何も変わりません。変わろうとしません。何の意味があるというのですか。悪魔の訴えは実に厳しいものです。そしてその訴えは事実でもあります。本日の旧約聖書出エジプト記17章、どんなにか神様の大いなる力強い御手によって解放された神の民。しかし人間たちは直前の困難が襲うとどんなに神様に愛され、導かれて来てもすぐさま神様を忘れ、慌てふためきます。こんなところに連れて来たやつが悪い、こんなところに来るつもりはなかった。こんなはずではなかった。どうしてこんなことになったのだ。誰々が悪い、神様が悪い。決して自分の問題にはならないのです。私たちを訴えるものは厳しいです。決して甘えはありません。決して私たちを赦しはしないのです。それが私たちの救いを困難にしている原因です。神様は、神様は私たちをいつだって赦してくださっているのです。愛してくださっているのです。ところがそんな私たち人間は、訴えられているのです。悪魔と呼ばれる存在に訴えられているのです。潔白を証明し、無罪を勝ち取らなければ、自由にはなれないのです。

3)弁護士
 どうでしょう。皆さんはこの裁判に勝てますか?この裁判に勝てる方法が一つだけあります。お気づきですよね。強力な弁護士を雇う事です。もちろん強力な弁護士とは、イエス様の事です。イエス様を弁護士として雇う事が出来たなら、後はイエス様にお任せください。どんな悪魔の訴えもイエス様は退けてくださいます。わたしたちの裁判を勝ち取ってくださいます。少なくとも情状酌量、執行猶予は必ず付きます。いや必ず無罪放免となります。ただただイエス様を信じて、全てをイエス様に任せてください。必ずわたしたちへの訴えは取り下げられます。本当は訴えらえた通りであったとしても。


4)イエス様は私たちをどんな訴え殻からも守り、訴えを退けてくださるだけではありません。私たちが生きて行く道を示して下さり、次の時代の人間たちに、人間はどのように生きて行くべきか、人間に必要な命の道を進んで行くように示して下さっています。わたしたちが信じて、礼拝するはただ神様だけであること。神様の愛は疑う必要も、試す必要もないこと。私たちの生きる道を指示し、その道を明らかにしてくれるのは、神様の声、神様の御言葉いがいにはないということです。イエス様によって無罪を得て、自由となったものが、毎日その心に思うべきことであるからです