2016年3月13日朝礼拝『一粒のままである』大賀牧師

ヨハネ12:20~36  イザヤ63:1~9 

1)歩みは光のうちに 
 先日木田みな子姉からお父様、有賀鐵太郎先生の書かれた『歩みは光のうちに』を頂戴しました。同志社大学神学部、京都大学文学部名誉教授として戦前、戦中、戦後を信仰者、神学者、教育者として歩まれた有賀先生の召天記念誌です。有賀先生は、東京の原宿同胞教会で洗礼を受けられましたが、中学4年の時に病気をし1年休学されました。その時に初めて“死”に気付かされ、暗黒の谷底に落とされたように感じられ、こう記されています。「私はかつて一たび『途方に暮れた』のである。道を失ったのである。その私が聖書によってキリストと出会うことにより『道』を見出したのである。私は今ここまで歩いてきて『わたしは道である』と言われたイエスの言葉の真実をいまさらのように感じるのである」、と。人間にはある程度共同のコースがあり、人間はそれを「道」だと思い込んでいるが、その道を進んで行くことは安心であるに違いない、ところが確実に歩んでいるはずのわたしたちの道が突如として消え去り、見失われることがあるのです。先日東日本大震災から5年を迎えました。大地震、大津波、放射能、その後の混乱で、これまで着実に道を歩んで来られた多くの人々が道を失い、途方に暮れています。有賀先生は、イエス様は「わたしは道である」と教えられましたが、それはイエス様以外に道はないということではないか、自分がこれが道だと思っていた道は本当の意味での道はなかったのではないか、と書かれています。

2)一粒の麦 
 「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである」。一粒の麦は生きています。死んだ一粒の麦ではありません。その生きた一粒が死ぬのです。当たり前の事ですが、そう簡単ではありません。しかし例えば一粒の麦が死ぬのが嫌でそのままであり続けることができるならば、実際にはそんなことはあり得ないのですが、そのように抗う事が出来るのかもしれません。一粒の生きている麦は地に落ちて、大地に蒔かれます。その体からはもしゃもしゃした根が生え、頭のてっぺんから緑色の芽というものが生えて来ます。芽は成長し、葉となり花となりそして実となります。ただその時一粒の生きた麦は栄養となり、体は皺だらけとなり、終いにはその姿形は無くなってしまいます。ただその後に無数の新しい命が生み出されています。命の道は生きた麦が地に落ちて死ぬこと、です。

3)地上から上げられる時 
 イエス様はユダヤの祭りのためにやって来たギリシャ人たちの訪問を受けます。その訪問はイエス様にとって時の徴でした。それはイエス様が地上から上げられる時です。イエス様が十字架にかけられる時、そしてイエス様が天に上げられる時を示しています。又その時イエス様は全ての人を自分の元へ引き寄せよう、と約束されています。

4)光のあるうちに光を信じなさい 
 有賀先生は、ご自分の歩いてきた道を振り返る時、よくこんな道を歩いて来れたものだ、と思われたそうです。とても想像できない道を歩かされて来たとおっしゃっています。誰もがそうではないでしょうか。安心できる道が私たちの前にあったかというと、そんな道はありはしなかったのです。神の民たちは、道なき道を歩んで来ました。誰も見たことのない道を歩んで来ました。それは私たちを導く方がおられたからです。私たちの為に道となってくださる方があったからです。光があるうちに光を信じなさい。光が私たちを照らしている時に、その光を受け入れるのです。光は、神様が私たちに向けて与えてくださる愛であり、神様の御言葉、そしてイエス様です。どんな暗闇の中でも、道の見えない荒野でも、わたしたちを命へと導いてくださるのは神様の愛と御言葉です。神様の御言葉を聞くことが、人間の命なのです。わたしたちの命の道は、一粒の生きた麦が地に落ちて死ぬことなのです。道を失い途方に暮れている人間、その人間に道を与えてくださるのは他ならぬ神様の愛であり御言葉です。そして私たちは愛する兄弟姉妹たちと共に歩んでいることを知らされます。一緒に歩いている人々がいるのです。道を失い途方に暮れている全ての人々が、イエス様によって引き寄せられますように祈りましょう。