2016年3月20日朝礼拝『あなたは自分の考えで』大賀牧師


ヨハネ18:28~40 創世記22:1~18
 
1)愛する独り子 
 あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げものとしなさい、との神様の命令をアブラハムはどう思ったことでしょう。何故神様はご自身が約束されて与えられた約束の子イサクをを献げものにしろと命じられたのでしょうか?又神様ご自身御自分の愛する独り子イエス様を見捨てて、ゴルゴタの丘で十字架につけることを容認されたのは何故でしょうか。十字架はキリスト教のマゾヒズム、虐待だなどと揶揄されています。

2)焼き尽くす献げものとして 
 イサク献祭と呼ばれるこの出来事。アブラハムは迷い続けていました。神様の命令に従うのか、愛する独り子を守るのか。日本語聖書にはアブラハムの苦しみが表現されていませんが、イサクの突然の呼びかけに、アブラハムは無理やり現実に呼び戻されたように息子の声に怯えているのです。イサクには父が何を苦しんでいるかそれを推察することぐらいできます。そして迷い苦しんでいるアブラハムにイサク自身が神様の御言葉に従って自分を神様への犠牲として献げるように勧めたのです。イサクが勧めなければアブラハムに決断は着かなかったのです。愛する独り子を自分が手にかけて殺すことは出来なかったのです。アブラハムの苦悩は、神様の苦悩と同じです。誰が愛する独り子を自らの手で殺したい親がいるでしょうか。親なれば自分の手でこどもたちを死に追いやることなどできはしません。神様にとってのイエス様の死も同じです。アブラハムとイサクの場合も、イサクが自ら進んで犠牲となる道を選んだのです。これは虐待ではなく、父親の苦しみを解いて上げたいという愛の故です。ユダヤ長官ポンティオ・ピラトのもとに送られたイエス様は、ピラトの「お前は王なのか」と言う質問に対して、決してうなずきませんでした。それはあなたが言っていることで、私が言っているのではない、と。イエス様ご自身は、私は真理について証しするために生まれた、とおっしゃっています。イエス様は全てを知った上で覚悟して、道を進んでいます。ユダヤの王としてではなく、神様の真理を証しするためにです。もちろん神様の真理とは、神様の愛の深さの事です。神様は、アブラハムと同じく、イエス様を殺したくはないのです。イエス様自身が神様を愛するが故に自ら十字架の道を進んでいるのです。

3)手をくだすな 
 アブラハムがイサクを捧げようとした時神の御使いが止めました。神様が求めているのはイサクを殺すことではないことがこれで分かります。イサクの代わりに雄羊が神様への献げものとして献げられています。犠牲とされた命、犠牲とされた動物たち、その命は何故犠牲とされたのでしょう。ユダヤの人々は自分たちの身代わりに動物たちの命をもって償いとしました。命で持って払わなければならないものが人間にはあるということです。イエス様が自らの命を人間に委ねられました。人間がイエス様を殺したのです。神様が殺したのではありません。イエス様がご自分の命を投げ出さなければならないほど、人間は残虐なのです。イエス様の十字架が残酷なものなら、それは人間の残酷さが表れているのです。神様がなさったのは、愛することです。イエス様を十字架につけた人間たちを神様は愛したのです。こんなことは人間には出来ない、イエス様にしかできません。人間が自分自身で状況を改善できるような事柄ではなく、神の子イエス・キリストでなければできない、それがイエス様の十字架の道だったのです。イエス様の十字架の後、動物の命を犠牲として神様に献げることは無くなりました。イエス様の献げた犠牲が完全なものだったので、もはやそれ以降人間世界は、自分たちの罪のために身代わりの命を献げる必要がなくなったのです。もう誰も犠牲を奉げる必要はないのです。犠牲を奉げなくなった私たちは、これからどうしたらよいのでしょうか。神の御使いがアブラハムにこう語っています。「地上の諸国民は全てあなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからだ。」と。聖書は至る所で語っています。神様が求めるのは動物の犠牲を奉げる事よりも大事なのは、神様の御声に聞き従う事だと。