2016年4月17日 朝礼拝 『私を愛しているか』 大賀幸一 牧師

ヨハネ21:15-25 
1) わたしを愛しているか 

 聖書の中に示されている出来事は、わたしの出来事である。聖書の中に示されている道は、私が歩いて行くべき道を示している、わたしたちは聖書をこんな風に読んでいます。他人事ではないのです。私たち自身の具体的な人生を指し示す物語なのです。さてイエス様の用意された朝食をしっかりと食べ、イエス様に養われた弟子たちは、イエス様から問われることとなりました。あなたは私を愛しているか?と。すでに弟子たちの代表であるヨハネの子シモンは、イエス様を神の子キリストであるという信仰告白しています。あなたを信じます、と言う告白をしています。それなのにイエス様は再度ヨハネの子シモンに尋ねます。あなたは私を愛するか?と。イエス様が再度ペトロに、そして私たちに尋ねるのは、そうする必要があるからです。神様を信じる、イエス様を信じて、ついて行きますと決心した人間にイエス様は尋ねているのです。信じていない人間に尋ねているのではありません。つまりそれは私たちにでもあります。ヨハネの子シモンがそうであったように、わたしは誰が何と言ってもイエス様から離れませんと表明したのにも関わらず、イエス様を裏切ったからです。そして私たちはここで気づきます。イエス様を信じ、従って行く、ということは、人間の決心、決断、意思によるのではない、ということです。ではどうしたら私たちはイエス様を信じて従って行けるのかと言うと、だからこそイエス様は私たちに今日、あなたは私を愛するか?と3度も尋ねているのです。イエス様がいなければ私たち人間はイエス様を信じ従えないのです。
2)悲しくなった 

 ヨハネの子シモンはイエス様が同じことを3度も聞くものですから、悲しくなったと表現されています。シモン・ペトロとしては自分が信用されていないと受け止めたのかもしれません。しかしイエス様はペトロを信用していないわけがないのです。何故ならイエス様は最初から全部知っていたからです。否定することも、裏切ることも、着いて来れないことも。3度同じことを尋ねたのは通過儀礼、通過儀式のようなものです。儀式、儀礼というと、何の意味もない形だけのものとお考えになることも有るでしょう。しかしそれを通過することに意味があるのです。通過することが自信になり、力になり、新しく歩み出すことができるからです。イエス様が尋ねているのはわたしたちにでもあります。イエス様に従えなかったことを否定するのでなく受け止め、認めて行く必要があるのです。何故なら誰もイエス様に従うことは出来なかったのですから。その上でイエス様は全ては最初から知った上で、あなたは私を愛していますか?と尋ねます。イエス様は私たちを責めるために尋ねているのではなく、自分たち自身が気づかなかった弱さ、過ちを認めて、受け入れて行くために尋ねられるのです。シモン・ペトロが言っているように、全てあなたが何もかも御存じです。私が本当にあなたを愛しているかどうか、それを知っているのはあなたであり、それを確認できるのもただ私ではなく、あなた、イエス様だけです。全てをあなたに委ねます。これがわたしたちの最終的な到達点、ゴールです。
3)生きたくないところに連れて行かれる 

 イエス様は、シモン・ペトロに、若い時は自分の行きたいところに行っていたが、年を取ると行きたくないところに連れて行かれる、と教えています。これからは、あなた方はあえて行きたくないところ、そんなところは無駄だと思うところ、意味がないと思って来たところに遣わされるようになるだろう。そこで大事な意味を見つけるだろう、無駄な事柄は何もなく、無駄だと思っていたことの中に大事な価値ある事柄を発見することになると教えています。それが年を得て、経験を積んで、大人になったものの役割である、と教えています。これからの世代、若い世代のために、忍耐して待ってくださる時なのだと教えています。無駄なこと、意味のないことなどありません。大事な価値ある、大切なことを見つけるための私たちの行くべき道です。