2016年4月24日 朝礼拝 『初めから一緒にいたのだから』 大賀幸一牧師

ヨハネ15:18-27  エゼキエル36:24-28
1)世は私を憎んでいる
 イエス様は世から憎まれていました。世というのは人間世界ということです。そしてイエス様によって選ばれた人間たちも人間世界から憎まれている、とヨハネ福音書は教えます。イエス様は人間世界にとって異質な存在なのです。人間として生まれ、人間として死んだのに、人間世界はイエス様を仲間とは認めなかったというのです。イエス様を仲間として迎えたのはイエス様が神様によって遣わされたことを信じる人たちだけです。イエス様を人間世界は仲間と認めなかったのと同じように私たちさえ人間世界では仲間もと認められない部分があるのです。人間世界はこうした異質な存在を排除して続けられて来ました。聖書的に言えば、迫害です。私たちの中に人間世界が異質だと思う何かがあるのです。その正体は神様を信じている、愛している、好きだという、ことなのです。ところがこの違いが人間世界では異質なものとみなされているのです。


2)私が来て話し、業を行ったから  イエス様はその言葉その業によって神様の愛と御言葉をはっきりと証言しました。何も示されていないのではなく、イエス様によって明白に示されたのです。神様は異質だからとして排除するのではなく、神様と繋がって欲しいのです。一度お母さんから生まれた人間、お母さんの外側に生まれた人間です。それでもつながっていた経験からどこかで分かり合えるものがあります。一度生まれた人間が新たに生まれるために又お母さんのお腹の中に入ることは出来ません、とニコデモさんは言いました。一度生まれた人間が新たに生まれる道、神様とつながる道は、身体的なものではありません。心理的でもなく、霊的なものです。信仰と言うつながり方です。


3)祈りと奉仕 
 今度入門講座で「主の祈り」を取り上げます。何故私たちは祈るのでしょうか?神様にお祈りすると気持ちがいいのです。どこかのパワースポットに行くよりも癒しを受けるのです。神様とつながることは人間の命に大いなる意味があります。神様の愛とエネルギーを受けます。しかし祈りに対してこう言われることがあります。祈りは自己満足である、と。神様が本当にいないのであれば祈りは只ぶつぶつつぶやいているだけです。又私たちは祈ることしかできませんが、と言ってしまいます。私たちの祈りは小さいですが、と言うのなら分かりますが、私たちの祈りは何の役に立ちませんが、と公表しているようなものです。もちろん私たちの祈りに何の力もありません。力を与えてくださるのは神様だからです。又祈ってばかりで何もしない、という批判もあります。何もしないことへの批判であって、祈りに意味がないのではありません。笑い話があります。酷い日照りが続き、雨乞いをするために教会に町の人々が集まって祈りを捧げたが、傘を持ってやって来たのはあるおばあさん一人だけだったというお話です。私たちの世界はこのたった一人のおばあさんの祈りによって守られているのかもしれません。


4)イエス様は犠牲を払って私たちに神様を証ししてくださいました。
 犠牲を払わないと証しにならないのです。先週、財務委員会立証がありました。ある兄弟が丸太町教会はいつも全てが満たされていたわけではないことを示されました。財政的、教勢的にも困難な時期がずっとあったそうです。そんな時を困難な時を一生懸命犠牲を払って捧げ、支えてくださった兄弟姉妹に今の教会は支えられています。どんなに困難があっても一生懸命祈って、神様が必ず支え導いてくださるという祈りで教会は作られています。犠牲を払って兄弟姉妹たちが捧げてくださった献げもので教会は作られて来ました。イエス様が私たち為に犠牲を払ってくださり、聖霊を遣わしてくださいました。私たちを守ってくださるため、教え導いてくださり、慰めてくださるためです。