2016年5月29日 朝礼拝『信仰は聞くことです』大賀牧師

ローマ10:5-17
1) み言葉はあなたの近くに   
 私たちは何故イエス・キリストを信じる者なのでしょう。先週入門講座で、天にまします我らの父よ、を学びました。イエス様は私たちに神様を父と呼びかけなさいと教えられました。それは神様が男性だから父ではなく、もちろん母よでも良いのですが、ユダヤ的には父よと呼ぶのがもっともよかったのでしょう。大事なのはイエス様は神様は私たちの親なのであり、神様と私たちは親子であることを教えています。親はこどものためにはどんなことでもしてあげたいと考えるものです。逆にこどもたちの悲しみを親は願っていません。神様はその様に私たちを大切に思っているのだと教えました。神様を必要以上に恐怖し、神様の裁き、審判と言って人々に恐怖心を植え付けるような教えは間違いであるのです。又イギリス、ロンドンではイスラム教徒の市長が誕生したそうです。イスラム教は唯一なる神様のみを信じる堅い信仰の人々です。そのイスラム教からキリスト教を見ると、キリスト教には3人の神様がいて、唯一なる神様を信じているようには思えないと言われます。イスラム教の神様は完全な方であるから、こども産む必要はない、と言われます。キリスト教の神様は不完全な神なのだと。では何故キリスト教では三位一体の神と言うのでしょう。それは全て私たち人間の救いのためです。もちろん神様は完全な存在です。神様が完全であれば、未熟な人間たちは完全な神様に恐怖し、委縮し、逃げ隠れするのです。自分が近づけないのなら、誰か別ものを遣わして近づこうとされたのです。そこで生まれたのがイエス様です。イエス様が神様のもとに帰った後、イエス様の代わりにわたしたちに近づき、支え、守ってくれるために聖霊が来てくださいました。だからキリスト教の神様は三位一体の神なのです。神様が不完全だからではなく、人間が不完全だからです。ローマ10:12、全ての人に同じ主がおられる、とパウロは言っています。それでいながら私たちがキリスト者であるのは、イエス様を宣べ伝えているのはキリスト教だけだからです。キリスト教にもエホバの証人とかモルモン教などの新興宗教があります。しかしそこには聖書の神様が宣べ伝えられていますが、イエス・キリストはいません。イエスはただ神様を愛する信仰深い人間でしかないからです。わたしたちは、ローマ10:9にあるように、口でイエスは主であると公に告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じているのです。イエス様は人間を神様と仲直りさせ、しっかりとしたつながりを与えてくださいました。それも神の子としての御自分の命をもって。そのような方が他の信仰、宗教にありますか。ですから私たちはイエス様を信じ、神様を聖霊を信じているのです。もちろんこれはどの宗教が一番かという事を言っているのではありません。御言葉はあなたの口、心、すぐ近くにあるのです。
2)信仰は聞くこと 
 わたしたちのキリスト教信仰は、全て神様から来ることによっています。私たちの信仰はただ神様とイエス様を信頼し、委ねることです。以前カトリックの晴佐久昌英神父のお話を聞いた事があります。若い世代にも絶大な影響を持っている人ですが、晴佐久神父は毎年若者たちと奄美大島そばにある無人島に渡ります。中にはいやいや来た若者たちもいるのですが、帰る時には皆変わっているのです。最初は携帯もPCも何もなくてつまらない、時間を持て余し何をしていいのか分からないのですが、何にもない無人島でただ海を見て、星を見ていると、自分を覆っていた膜のようなものが取れて行って、色々な重荷が取れて、最後にこの世界が如何に美しいか、この世界を創造した神様の素晴らしさを知るのです。信仰は今私たちに必要なたった一つの事は何かを思わせ、選ばせてくれます。わたしたちの日常は整理も捨てることもままならず、身動きとれずにいるような苦しみではないでしょうか。ですから人間は日常から離れ、整理し、選択する必要があります。逃げるのではなくて、選んで、進むためです。それは決して無人島に行かなければできないのではありません。ここでも出来ます。皆さんの家でも。心を開いて神様に祈ること、そして神様の御声を聞き、御言葉を聞くこと、そこから始まります。