2016年7月17日 朝礼拝 『確信に基づかないのは罪』大賀牧師

ローマ14:10-23
1) 赤信号で横断歩道を渡ってはいけませんか 
 皆さん歩行中赤信号でも十分安全だと思われる時には横断歩道を渡りませんか。ある教会の信徒さんは、本当に熱心に教会を支えてくださる信仰者です。開業医でもありました。近くに開業しているお医者さんを教会にお誘いになられ、御本人も洗礼を受けて見ようかというお気持ちにまで至られたのです。ところがある時からぱったりと礼拝にも教会に行かなくなられました。理由があったのです。ある時ご自分を誘われた方が赤信号で横断歩道を横断するのを目撃してしまったからです。このことに躓いてしまわれたのです。赤信号を見るとわたしはいつもこのことを思い出し、もしも自分のこの行動で誰かが躓いたりしたらどうしようと思い、赤信号が変わるのを待ち続けております。

2) 食べるのも食べないのも主のため 
 ローマ書14章で問題とされているのは、1コリント8章で取り上げられている肉屋の肉を食べてもいいかどうか、という問題です。初期キリスト教会は、多くのユダヤ人キリスト者たちと次第に増えて来た異邦人キリスト者とで成り立っていました。双方がイエス・キリストにあって一致して行くために2つのことを大事に守りましょうと合意がなされていました。その一つが偶像崇拝をしないという事でした。私たちを愛してイエス様を遣わしてくださった神様を私たちは神様として礼拝します。この方以外を私たちは神様とはしないのです。それが偶像崇拝をしないという契約でした。ところがパウロの時代、肉屋さんで売っている肉の中には、ギリシャ、ローマの神々に献げられた動物の肉が取り降ろされ、販売されていたのです。ある教会の兄弟姉妹はこのことを心配しました。もしかしたら私たちはいつの間にか偶像の神々に献げられた肉を食べてしまっているのではないかと。不安になった信仰者たちの中には、これからは一切肉は食べないという人たちが現れたのです。又他の兄弟姉妹にも肉を食べると偶像崇拝になるから食べるなと強要するものが現れたのです。さてパウロは20節に、全ては清いのです、と応えています。又14節、「それ自体で汚れたものは何もないと、私は主イエスによって知っている」と応えています。イエス様ご自身は、マルコ7:18に、「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。」人を汚すのは、人間の心の中から出て来る悪い思いが人を汚すのである、と教えておられます。人間が汚れているのでも、食べ物や人間の外にある何かが人間を汚すことはないと教えています。たとえ偶像に献げられた肉を食べたからと言って人間が汚れることはないのです。ところがパウロは21節、肉もブドウ酒も食べないのがいい、という結論を出しています。それはもしも肉を食べることが偶像崇拝につながらないかと不安を感じている兄弟姉妹があるからです。何の心配もないのだと言っても、理解し、受け入れるのに人は時間がかかります。時間がかかることを、すぐに受け入れられないことを教会の兄弟姉妹たちに受け止め、嘲笑わないで分かって欲しいとパウロは訴えているのです。しかし本来パウロは言うべきです。肉屋の肉を神様に感謝して食べましょう。食べても何にも神様に背くことにはなりません、と。

3)自分のことについて神様に申し述べる 
 私たちは皆神様の裁きの座の前に立つのです。その時、誰もが神様の前で一人一人自分の事を申し述べることになるのです。自分の決算を自ら神様に示すことになるのです、とあります。誰かが私たちを神様に訴えるのではありません。訴えるのは自分です。自分の人生の決算を自分が示すのです。神様に愛していただいてどれだけ感謝であったことでしょう。それでも私たちには今もいくつも小さな過ち弱さが色々あります。神様は赦して下さるでしょうか。神様には全てが見えています。全てが分かっています。隠してどうするのですか。逆に全てを神様に委ねなさい。隠そうとするだけ私たちは苦しみます。あえて神様に全て告白なさい。全てを神様に任せてしまいなさい。神様の愛は私たちの罪の全てを覆ってくださる。神様の愛で覆われているから、安心することが出来るのです。ここに確信を持ちましょう。この確信、この信仰が私たちを救います。