2016年8月7日 朝礼拝 『キリストの思いを抱く』大賀牧師

ヨブ記28:12-28、1コリント2:11-3:8
1)戦責告白 
 平和聖日を迎えました。本日皆様に「第2次大戦下における日本キリスト教団の責任についての告白」という文章が配布されています。1967年今から49年前当時の日本キリスト教団議長鈴木正久先生の名前で公表されました。日本キリスト教団と言う教会は日本帝国政府が敵国の宗教であるとされたキリスト教を一括管理するために強勢的に合同させられて生まれました。戦後新たに出発した日本キリスト教団でしたが戦争に協力、加担したことを清算する機会がありませんでした。当時も戦争に協力したくてしたのではなく、しかたなく、無理やり協力させられたのだから罪ではないと考える人々も少なくなかったそうです。しかし鈴木議長は神様の教会が神様の御心に反するようなことを行ったのだから、少なくとも神様に罪を告白し、赦しを請わなければならないとしました。そしてアジアの人々、教会に対して罪を告白し、赦しを求める必要があったのです。そうでなければ日本キリスト教団という教会が新しく出発することが出来なかったのです。日本キリスト教団として公表することは出来ませんでしたが、教団議長名で公表することとなりました。ただ紙切れ1枚の文章ですが神様の前に罪を告白することで、アジアの教会は日本キリスト教団ともう一度主にあって共に歩んで行こうと手を差し出してくださったのです。

2)霊の人、肉の人 
 コリント教会は相変わらず色々な問題が起こっています。事態収拾に乗り出したパウロの執り成しが上手くいかなかったこともその要因ですが、私はパウロに、私はアポロににつく、などと口にしたと言う有名な事件が起こっていたのです。相変わらずあなた方は肉の人だとパウロは言っています。何故ならあなた方の間に妬みや争いが絶えないからだとパウロは分析しています。神様を信じる教会の中にも妬み、争いが起こっているのです。人と人とを仲違いする力、その最たるものが妬みです。何故自分だけが、何故あいつだけがこうした人間の肉の思いが、人と人とをばらばらにして行きます。気を付けましょう。遂に互いに争い合う結末となって行くのです。パウロは誰々につくなどと言い合っている教会の姿にあきれ返り、パウロとは誰か、アポロとは誰か。どちらも神様によってコリント教会のために遣わされた者ではないか。遣わされた神様の御心を知らずに、私はパウロになどと言っていることの無意味さを示しています。人間自身の本来の輝き、価値を知ることが出来るのは、表面的ではなく、心を知っていも同じである。ただその人の霊そのものによらなければ何もその人の尊さは分かるはずがない、とパウロは説明しています。つまりそれほどまでに私たちは一人一人、人間の持つ素晴らしさ、尊さを何もまだ知ってはいないというのです。12節に「私たちは世の霊ではなく、神様からの霊を受けました。それで私たちは神様からの恵みとして与えられているものを知るようになったのです」と、あります。神様の霊を受けずして、私たち人間が知っているものがいかに限定的であるかを示しています。

3)キリストの思いを抱く 
 その神様の霊を受けて、導かれたのが私たちの主イエス様です。私たちは、キリストの思いを抱いています、とパウロは教えています。キリストの思い、とは何でしょうか。イエス様ご自身がご自分の命をもって成し遂げたことです。仲直りです。和解です。異なる者が、違ったものが繋がり合う。イエス様のなさったことは、全ての命が神様としっかりつながり合うということです。そのために御自分の命を犠牲にされたのです。私たちの行く道も和解と仲直りの道です。妬みと争いの道ではない。それはきっと私たちの命を苦しめる。神様の霊を受けて和解と命の道を歩みましょう。私たちは神様に愛されているのですから。又神様を愛しましょう。一方通行では仲直りは出来ない。相互に理解し、認め合い、愛し合う。それで初めて神様の愛は完成し、神様の愛は満たされるのです。一方通行で満たされないのです。神の霊に生きる者はこの道を進みます。