2016年9月11日 朝礼拝 『広さ、長さ、高さ、深さを理解する』大賀牧師

歴代下7:11-16、エフェソ3:14-21
1)ソロモンに現れる神様 
 皆さんは神様の声を聴いたことがありますか。例えばソロモンはエルサレムの神殿建築が完了した時、神様の声を聴いています。しかし聖書にはもっとはっきりと神様の声を聴いている人がいます。例えばアブラハム、そしてモーセです。彼らの場合は目覚めている時に神様に呼びかけられている。神様の声が聞こえているようです。そうなりますと間違いなく神様はある。神様は私を愛していることが良く分かります。しかしほとんどの人はアブラハムやモーセのように神様の声を聴いたものはいません。


2)キリストを住まわせる 
 神様の声が私たちの中にしっかりと留まっているからこそ、大いなる意味があるのです。エフェソ3:17、「信仰によってあなた方の心のうちにキリストを住まわせる」という御言葉があります。私たちの中にキリスト・イエス様が住んでくださる。いつも一緒にいてくださる。想像しますにそれは人間にとってとっても邪魔になるか、とっても助かるか、どっちかだと思います。もちろんイエス様がいつも私たちの中にいてくださることが邪魔になるようではだめなのです。それは神様を信じ、神様と共に生きる者たちにこの上ない喜び、この上ない力です。その人間は、絶対的な神様の愛と恵みを受け、満たされて人生の旅路を全うすることになるからです。人間誰もがそのような状態になりたいと願っても簡単ではありません。どうしたらそうなれるか、それは神様によらなければなりません。神様がなされることなのです。人間が何か成せばという事ではないのです。御父がその霊により、力をもってあなたの内なる人を強める時、それが実現されるのです。


3)広さ、長さ、高さ、深さ 
 私たちは神様という存在がはかり知れない方であると知っています。人間の小さな器ではとてもはかりきれないのです。それだけ神様の愛の広さ、長さ、高さ、深さの大きなこと。未だに私たちはその愛の大きさの全体像を突き止めるに至っていません。19節にありますように、神様は何時だって満ち溢れているのです。永遠から永遠に向かって満ち溢れているのです。そんな神様の溢れる愛を、小さな私たちが捉えることなどできません。ただその溢れる愛に与ることが出来るのです。人間はいつも自分の鋳型、形で物事を見ようとしますが、それでは分かりません。ただ神様がそれを成してくださいます。人間がすることが出来るのは神様の御前にただ丸裸になることです。たとえばヨブは、裸で生まれたのだから裸で帰ろうと、その道を知っていながらも、実際には神様の前に裸になることが難しかったのです。理解はしながらも裸になれない苦しみの中、神様に無理やり剥ぎ取られるように裸にされていったヨブです。そこで初めて求めていた神様の声、神様の愛を知ったのです。神様の前に裸になるのなら、自然に神様の溢れる愛が私たちの命を覆い、私たちの体を満たしてくださいます。これは特別なことではありません。私たちが続けてきたことを説明しているに過ぎません。私たちはこれまでも礼拝で、祈りで、聖書を通して神様の声を聴いてきました。ただし私たちは神様の前に裸になって聴いていたかどうかなのです。


4)全てをはるかに超えて適える方 
 神様の声が聞きたい方、聞こえる方はこれで良いのです。しかし人間たちの中には、神様の声を聴きたいと思ない。聞かなくても生きられるという人々があるのです。確かに神様の声を聴かなくても人間の世界の中では生きられるのです。ですが人間にとって、神様の声は必要ないのでしょうか。人間にとってこの肉体が終わるまでが命であるならそれで構わないでしょう。それで終わりではありません。人間は肉体を脱いだ後もはるかに長い時を神様と共に生きます。私たちはお節介にも関わらず、霊と魂をもって生きている人間に必要な命のあり方、神様の溢れるほどの愛と恵みが私たちに必要であることを訴えているのです。