2016年9月18日 朝礼拝 『全ては神から、神により、神へ』大賀牧師

箴言3:13-20、ローマ11:33-36

1)私は信じる 
 今日も礼拝の中で、使徒信条が告白されました。わたしたちは、聖書の神様を信じます。イエス様の父なる神様を信じます、と告白をいたしました。つまりわたしたちは聖書の神様を自分たちの神様として選んだのです。何故私達はイスラム教を信じなかったのでしょう。もしも中東諸国に生まれ住んでいたならそうなっていたかもしれません。何故私達は仏教徒、神道ではないのでしょう。かつてはそうであった人もいるでしょう。しかし今はイエス・キリストを信じています。少なくとも今日本で自分たちがイエス・キリストを信じているということは、自然でも習慣でもない、何かが働いている、と言えるのではないでしょうか。自分たち自身が自分の意思で、神様を信じているのです。ですから私たちが神様を選んだとも言えるのです。誰かに無理やり信じさせられているのではありません。 

2)全ての人を憐れむため 
 しかし私たちは神様の御業を知らされています。ローマ書11:25以下に紹介されている神様の御業です。神様は全ての人間を愛し、救うために、まずは神様の民となって共に歩んでくれるものたちを選ばれました。イスラエル人と呼ばれる人々です。神様と契約結び、神様にとても愛されて来ました。そして神の子イエス様がやって来ましたが、どういう訳か神様の民はこのイエス様を信じなかったのです。それで神様の祝福と愛はこれまで全く神様に見向きもされていないように思える異邦人と呼ばれる人々に与えられることとなりました。異邦人は大変神様を喜び、愛しました。しかし神様は最初の神様の民イスラエル人たちを見捨てられたのではありません。異邦人たちが神様の愛と祝福を受けて満たされた時、再びイスラエル人たちに神様の救いの御業は向けられます。そして遂には最初の神の民も後の神の民も全ての人が神様の愛と祝福を受けるものとなるのです。これが神様のなさっている御業なのだと教えられています。つまり今もし誰かが神様に愛されていないということがあっても、その人は神様に愛されていないのではなく、これから神様に愛されるためにあるのです。今神様がとても愛されているからと奢ることはありません。今私たちが神様に愛されているのは、先に誰かが神様に愛されていて、何故か神様に背いてしまったためなのかもしれません。又私たちは今神様に愛されているとしても、それはこれから後今神様から遠ざかっている人たちが神様に愛される時のためなのかもしれないのです。神様は全ての人を不従順に閉じ込めましたが、全ての人を憐れむためだったのです。そして28節以下にこうも言われています。福音について言えば、イスラエル人はあなた方のために神様に敵対している。神様の選びについて言えば、先祖たちのお蔭で神様に愛されています。今神様に敵対しているとしても神様が選ばれた、神様が愛されたということは取り消される事柄ではないのです。どんなことがあっても取り消されないという事は私たち人間にとって大いなる希望です。

3)神から、神を通って、神へ 
 全ての人が神様の憐みを受けるためであったことを知らされて、わたしたちは神様がなんと深い御業をなさっているかを思い知らされます。しかし人間の中にはでは人間は何もしなくていいのなら積極的に神様を信じる意味はあるのかという疑問を持つ方も出て来るのです。紙の上でだけ物事を考える人はそう思う人もあるでしょうが、神様に愛され、選ばれた人々は神様と共に歩んで行こうと心に思います。何もしなくていいと思う人などいません。神様が遣わされたイエス様と共に歩んで行けば、これまで越えられなかった壁さえも越えて私たちは全ての人が神様の憐みを受け、祝福を受けるようになります。それをなさるのは神様です。すべては神様から始まっています。そしていつも神様によっています。神様の愛を通っています。そして全ては神様へ、ひたすら神様に向かって進んでいるのです。