2016年12月4日 朝礼拝『その日そのときのために用意を』  大賀牧師

イザヤ59:12-20、マタイ13:53-58
1) 故郷ナザレで 
 アドヴェント第2主日を迎えました。今日イエス様は、故郷に久しぶりに帰られました。もちろん故郷ガリラヤ地方ナザレという村でもイエス様は、神様の御言葉、福音を一生懸命語られ、教えられ、神様の御業を示されました。ところがナザレの人々の多くは、イエス様に躓いてしまったのです。折角イエス様を迎えたのですが、故郷ナザレの村の人々は、何故イエス様を迎えられなかったのでしょう。イエス様を迎える準備のどこに不備があったのでしょうか。

2) 大工の息子 
 イエス様が語られ、教えられ、行われたことは、他の町や村で行われている事と全く同じです。それなのにナザレの人々はイエス様に躓きます。ナザレの人々は、イエス様を良く知っているからです。知っているはずだと思っているのです。ここに既に嘘があります。ナザレの人々が知っているイエス様は、大工ヨセフの息子としてのイエス様です。イエス様も大工でした。但しこの時代の大工さんは、旅をしながら町や村を訪ねて仕事を自ら探して歩く大工さんです。しかしこのことが実は大いに有益なことにつながると想像されています。イエス様には学歴がありません。父ヨセフが早く亡くなったと言われているように、家族を支えたのはイエス様です。仕事を求めて旅を続け、各地の智者賢者を探し回り、その人々からイエス様は多くの事を学ぶ機会を与えられたのではないかと想像されます。もちろん多くは神様ご自身からでしょう。しかしナザレの人々には、大工の息子なのにどこからこの言葉、力を得たのか、と見てしまいます。そこで躓き、先に進めないのです。

3)執り成すものが一人もいない 
 イエス様は、ご自分が現れる時、多くの惑わせるもの、そして偽物が現れて人々を迷わせると教えておられます。そのようにこれから先私たちの世界には、本当に真実を語り、正しいことを行うものなのかどうか、私たちが判断に迷う、惑わされる、そんなことが多くあるように予想されます。その時にわたしたちは惑わせるものを退け、真実を探しだし、イエス様に辿り着くことがどうしたらできるでしょうか。惑わすものは実に巧みで、実に執拗です。今はもっと大がかりに、公的機関や銀行や郵便局などこれまで信頼すべきところだったものを名乗って人々を迷わせます。電話がかかって来てもこの人は本物かどうか誰も分かりません。偽物なのか本物なのか区別がつきにくい、簡単に判断できない時代です。そして迷わされ、騙されてしまうのです。しかしイエス様はこう教えています。それが真実なのか、偽物なのか見極めることが困難であっても、その木が実らす果実がどのようなものであるかを持って判断することが出来ると教えています。つまり今すぐさま善悪を判断できにくいものがある。しかし時を経て、そのものがもたらした結果、果実がどのようなものかで判断することができると教えています。

4)主は贖う者として来る 
 イザヤ書に、誰一人として執り成すものが無いのを驚かれた、とあります。人間の世界に正義が行われておらず、罪が蔓延している。人間の中から誰一人として、神様と人間とを執り成すものがないのです。誰も何も出来なかった。真実を見極め、偽物を退けることが出来なかったのです。しかし、20節、「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者の元に来る」とあります。神様は、人間を助けるために来られる。神様は人間を救うために来られるのです。神様の前に罪を悔いる者、神様を覚え、神様の前に心を平らにするもの、神様に聞こうとする者のもとに来られるのです。これが真実です。神様は生きて、私たちを助け、救うために今日も働いておられるのです。これを惑わすものは真実を知らない。真実を語っていないのです。これまで多くの人々が惑わされて、倒れて行きました。惑わすものを退け、神様を信じ、イエス様を迎え、命へと至りましょう。