2017年1月15日 朝礼拝 『すぐに網を捨てて従う』 大賀幸一牧師

エゼキエル2:1-3:4、マタイ4:18-25
1)網を捨てる 
 今日ガリラヤ出身の4人の漁師たちのイエス様に対する姿勢は実に見事、清々しいです。彼らは皆あっさりと全てを捨ててイエス様の呼びかけに応えて従って行くのです。先ず必ずイエス様の呼びかけがあるということです。これがないままにイエス様に従って行く人はありません。必ず神様からの招きがあるということです。ペトロとアンデレは投網の最中でしたが網を捨てて行くのです。父ゼベダイの子ヤコブとヨハネは父と舟を捨てて行くのです。新共同訳は、残してと意訳していますが、原文はちゃんと捨ててと書いてあります。実にひどい話ですね。イエス様に従うからと言って、父親や職業を捨ててしまうのです。しかし日本でも信仰の道を目指すものは皆出家し、修行の道を歩んで来たのですから、救いを求める、真理を求める、究極を求めるということは必ず何かを捨てて来たのです。迷いや患いから解放され自由となるために人々は捨てて来たのです。何かに執着することで苦しんで来た自分を解放するために握りしめているものを解き放ったのです。そうすることで見えて来るものがありました。ただペトロたちの場合網を捨てたのはそんなに立派な理由だったのか、という疑問があります。ガリラヤの漁師たちは、後程自分たちはこれまであなたのために色々犠牲にしてイエス様について来ましたが、私たちには何をくださいますか、と言っている様な人たちです。ペトロたちは結婚していたようですし家族もいたようです。家族がありながら実に身勝手なことをしているのがペトロたちなのです。

2)人間を取る漁師にしよう 
 ガリラヤの漁師たちとイエス様との出会いが、この時だけとは考えにくいのです。ヨハネ福音書では、アンデレがヨルダン川で洗礼を授けていた洗礼者ヨハネの弟子であってと説明しています。そしてアンデレが先ずイエス様に合い、アンデレを通じてペトロがイエス様と出会ったと記されています。もしかしたらガリラヤで呼び出される前に、イエス様とガリラヤの漁師たちの間にはすでに深いつながりが出来ていたのではないでしょうか。そして湖畔で漁師たちは再びイエス様と出会い、呼びかけられた。漁師たちはすぐさまイエス様に従っていったのです。イエス様に従う者たちには捨てることが大事だったのではありません。確かに捨てることは同じですが、漁師たちのイエス様への思いはそれは大きく強いものがあったのです。他のものが見えなくなるほど、イエス様は魅力で溢れていました。この人と一緒にいれば間違いないという思いだったのです。それがガリラヤの漁師たちの喜び、幸せでした。網を捨てることに喜びはありません。父と舟を捨てることにも。ナザレのイエスといつも一緒にいたい、いつも一緒にいることが幸せなのです。そういう人との出会いをガリラヤの漁師たちは自分たちの人生に見出したのです。

3)大勢の人々が従った 
 イエス様とガリラヤの漁師たちは本格的な伝道、宣教に進んで行きます。この地域一帯の様々な病や苦しみの中にある人々がイエス様によって癒され、そして従って来ました。大勢の人々が従ったのはイエス様に呼びかけられたからです。大勢の人たちも何かを捨てて従ったのです。それはイエス様によってあらゆる病気や患いを捨て去ったのです。イエス様によって癒されたという事ですが、大勢の人々が負わされていた苦しみや抱え込んでいた患いを捨て去ったのです。私たちの喜びは実は自分たち自身のものではありません。私たちの喜びは、私たち以外の人々と共にある。自分自身だけが満足することが私たちの喜びではないのです。出会う人々が喜び、楽しんでいることが何よりも喜びです。私たちが神様を信じ、祈り、共に歩んでいるのは、私たちが神様に用いられているからです。私たちの祈りが神様の御国のため、真の平和のために必要とされているからです。喜んでこの礼拝を祈りを信仰を捧げて行きましょう。