2017年1月22日 朝礼拝 『死の陰の地に光射す』大賀幸一牧師

イザヤ8:23b-9:3、マタイ4:12-17
1)宣べ伝え始めた 
 イエス様はガリラヤ地方カファルナウムという港町を拠点に、活動を開始しました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」、イエス様もこの様に人々に宣べ伝え始めたとされています。この言葉は、洗礼者ヨハネがヨルダン川で始めた事柄です。洗礼者ヨハネは逮捕され、牢獄に連れて行かれました。イエス様は場所をガリラヤ地方に移し、洗礼者ヨハネの活動を引き継ぎます。ヨハネがいなくなり、イエス様が最初から自分で始めなければならなかったのです。洗礼者ヨハネがこの言葉を語りだしたのは人々に反省させたいからではありません。何がしたかったのか。それは救い主キリストを私たちが迎えるようにしたかったのです。私たちが自分たちの救いと命のためになさなければならないことは、悔い改める、ただこれだけです。そしてキリストを迎えるのです。悔い改めるとは、罪を悔いるのでも、正しく改めるのでもありません。私たちを神様に向けることです。私たちの目を、心を、行動を神様に向けること、それがここでいう悔い改めです。洗礼者ヨハネはその悔い改めの徴として水で洗礼を授けていたのです。私たちの心を、私たちの向いている方向を神様に向けましょう。天の国が近づいているのです。マタイ福音書では天の国、天国と呼ばれています。マルコ福音書では神の国、どちらも同じです。神様が、神様の国がわたしたちのところに近づいて来るのです。このチャンスを逃してはなりません。ですから神様に心を向けましょう、と教えられています。

2)死の陰の地に光が 
 ガリラヤ地方はユダヤの人々にとっては辺境の土地です。しかし、イエス様がそこに住み、そこから福音を宣べ伝え始めたことで、光が当たりました。このことはイザヤ書の預言と一致するところがあり、神様の計画なのだということが示されています。神様はイエス様を通じて、これまで光の当たらなかった人々に光が当たるようにと計画します。確かに未だに光が当たらない人があるかもしれません。しかしそれは神様が光を当ててくださらないのではありません。神様はこれまで光が当たらなかった人々に光が当たることを計画しています。

3)宣教という愚かな手段 
 イエス様は洗礼者ヨハネのしてきたことをそのまま受け継いで人々を導き、教えておられました。イエス様なんだからもっと別な方法があったのではないか、と思うのですが、イエス様がなさったのは人々の心に、魂に語りかけ、神様の御言葉、福音を語る、宣べ伝えるという事でした。1コリント1:21に、「神様は宣教という愚かな手段で人を救おうとお考えになった」とあります。“宣教という愚かな手段”です。もっと立派な、もっと良い手段があるのでしょう。しかし神様が、宣教という愚かな手段で人を救おうとされているのです。1コリントには、「宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。逆に衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安な状態であった」と示されています。それでも宣教という愚かな手段が用いられて行きました。何故か。「それはあなた方が人の知恵によってではなく、神の力によって信じる者となるためでした」とあるのです。魅力ある人間の言葉ではなく、神様によって信じる者となって欲しいので、宣教という愚かな手段が用いられるのです。故にイエス様は最初から宣教すること、一人一人に神様の愛と福音を宣べ伝えることで人々が救いと命を得るように働きかけ続けて来ました。これからも神様が私たちになさる道は変わりません。宣教という愚かな手段で、神様は私たちに語りかけられます。私たちの心が神様に向けられるまで、何度も何度も繰り返し語りかけられます。そんな愚かな手段が、私たちの命の道、救いの道なのです。