2017年3月12日 朝礼拝 『どんなものでも赦される』大賀幸一牧師

イザヤ35:1-12、マタイ12:22-32
1)土を耕す 
 2018年末日本聖書協会から新しい日本語訳聖書が出版される予定です。翻訳作業も最終的な段階へと入っている様で、同志社大学を会場に石川立先生の講演会が開催されました。新しい聖書翻訳は教会で使用することを目標として作業が行われているそうです。石川先生は聖書翻訳事業を土を耕すことであると教えてくださいました。私たちが神様の御言葉として聖書を読み続けているうちにいつの間にかその土は固く踏み固められてしまいました。御言葉の種が100倍の実りを持たすような場所とはならなくなってしまっているのです。もう一度土を耕し御言葉が植えられて豊かな実りをもたらすものとなるようにする、それがいわば新しい聖書翻訳作業であるとのことです。

2)神の国は来ている 
 イエス様が視覚、言語障害の人を癒されました。ファリサイ派の人々がイエス様への賞賛を妬んで言います。あの男の力は悪霊の力だ、悪霊の頭ベルゼブルの力で、悪霊を追い出しているのだ、と。イエス様のなさっていることを認めたくない人がいるのです。イエス様が私たちの世界に生まれて始められたことはなんでしょう。28節に、イエス様はわたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ているのだ、とおっしゃっています。このことを実現したのは、イエス様から語られる神様の御言葉と愛です。私たちはもう既に神様の国の中に入っているのです。神様の愛をしっかりと知ることのできる圏内にいるのです。神様の御言葉を何時も聞くことができる中に入っているのです。それなのに神様の御言葉を聞くことができないとすればそれは何故でしょう。神様の御言葉の種が植えられても、その御言葉が豊かな実りをもたらすことなくしぼんでしまうのは何故でしょうか。春を迎えて、正に色々と変化の時期、去って行かる兄弟姉妹を思うと寂しい気持ちになります。特に年を経てからのこの様な変化は、若い時代とは違って、気持ちを切り替えたり、新しいことに挑戦したりで上手く変化を乗り越えって行けるのですが、次第に変化について行けなくなる。ただ自分だけが取り残されてしまうのではないか、という不安になるのです。もちろんそんなことは決してありません。聖書の事に限れば、わたしたちは自分たちの常識を聖書に移し替えてならないのです。聖書を通して語りかけてくださる神様の御言葉を聞く、この姿勢を失うべきではないのです。そのためにも私たちは、神様の霊によって、私たちに与えられる変化を、神様が示し、用意してくださっている事柄として受け止めて行く用意が必要です。決して私たちだけが取り残されるようなことはありません。何故なら、わたしたちは、イエス様共に歩むのです。イエス様が私たちと共に歩んでくださるのです。私たちの味方はイエス様なのです。私たちはイエス様と共に集めるのです。イエス様に敵対するのでも、散らすのでもないということです。

3)どんなものでも赦される 
 イエス様は、31節に、人間が犯す罪や冒讀はどんなものでも赦される、と教えておられます。神様はどんな罪も赦されているのです。そのためにイエス様は人間となられました。イエス様を認めない者も神様を認めない者も赦されるためです。しかし私たちを最後まで導き、養ってくださる聖霊を冒讀してはならないと命じられました。私たちと共に永遠にいてくださる聖霊を見失ってはならないからです。神様もイエス様も既に私たちを赦しているのです。ならば誰も私たちを赦さないものなどないはずです。しかし最後に私という悪霊があるのです。私が私を赦さないのです。でも神様が、イエス様が赦しているのです。もう自分を赦してください。もう自分を愛してください。神の国は来ているのですから。