2017年3月19日 朝礼拝 『殺害と復の予告』大賀幸一牧師

ヨブ記1:1-12、マタイ16:13-28
1)手を伸ばして 
 ヨブ記を読んでいただきました。神様の御座の前に天使たちが集合し、会議を開催します。そこに現れたサタンと呼ばれる堕天使。サタンと呼ばれる天使はいわば人間世界の監察官です。人間たちの真実を見極める者として登場します。神様はウヅの地に住むヨブを絶賛します。彼ほど無垢、正しく、神を畏れ、悪を避ける人間はいないと。サタンはこのことを疑います。それは神様がヨブを祝福し、守っているからではありませんか?ヨブが神様から見捨てられたなら、ヨブも他の人間と同じく神様を罵るに違いありません。ヨブの無垢さの証明のため、ヨブはサタンによって財産を、家族を失って行きます。ヨブはすべては神様が与えてくださったもの、それを失うのも神様であることを承認し、受け留めようとします。ヨブは家族が祝宴を開き終わった段階で、家族のために神様への献げものを捧げたとあります。家族が罪を犯し神様を呪ったかもしれないと思ったからです。果たしてこのヨブの態度はどう評価すべきでしょう。やっているかやっていないかも分からないことのために神様に償いの献げものを献げるのです。告発されることなくして罪は自覚されません。自覚されない罪は赦しも償いもなされることはないのです。ヨブはサタンから告発されたのです。しかしヨブはこの告発を拒否しました。何故神様は私を見てくださらないのか、見てくだされば私が間違っていないことを知ってくださるはずだと。ヨブは精一杯人間として無垢で正しく誠実に生きて来たのです。サタンはヨブを告発し、初めてヨブは自分の何が間違っていたのか考え始めます。実はヨブは正しいのです。しかし正しいヨブでも、神様との間は離れているのです。どんなことをしてもヨブは神様に近づけないのです。神様と人間の間にある大きな断絶。人間にはどうすることも出来ない断絶が神様との間にあるのです。ヨブは告発されて初めてこのことに気づかされました。私たち人間の側からは神様が見えない、分からない、聞こえないのです。しかし神様の側からは私たちが見えている、分かっている、聞こえているのです。

2)私の邪魔をする者 
 イエス様は弟子たちに、あなた方は私を誰と言うかとの問いに、弟子たちはあなたはメシア、キリストです、との答えてを得て、最初の受難予告をいたしました。受難予告は、イエス様がこれから進むべき道がどんなものであるかを示し、イエス様が全てを知った上でその道を進んでいることを証しする者です。それはイエス様の十字架の道が神様の御心に従って起こっている出来事であることを証明しています。それは私たち人間世界が神様から告発を受けているのです。自分たちではイエス様と一緒に行くことのできないものなのだと確信させられるのです。
3)自分の命を失うな  もちろんイエス様は私たちを告発するために来られたのではありません。私たちの命を救うために来られたのです。イエス様はもし人間が全世界を手に入れても、とおっしゃっていますように、私たち人間にとって豊かになることは夢です。しかしそのために命を失うことになっては何にもなりません。ヨブは失うという経験をしました。ヨブは言います。私は裸で生まれた。そして私は裸でそこに帰ろう。わたしたちは皆神様によってこの地上に裸で生まれたのです。最終的には裸で神様のおられるところに帰るのです。神様のおられないところに帰る人はいません。この地上の人生で何よりも大事にしなければならないのは命です。肉体の命だけではなく、私たちに与えられているトータルな命です。しかしこの大事な命、私たちがどんなに努力しても、私たちの命は神様から引き離されているのです。神様と共になければ私たちの命は帰るべきところを見失っているのです。もちろんそのためにイエス様が来てくださったのです。