2017年5月14日 朝礼拝 『あなた方の場所を用意する』大賀幸一牧師

サムエル下1:17-27、ヨハネ11:1-11
1)父の家には沢山ある 
 イエス様がおっしゃるには、私の父の家には元々住むところが沢山あるとおっしゃっています。イエス様が神様の所に帰って、私たちのために場所を用意していってくださるものとばかり思っておりましたが、実はそうではないのです。元々沢山の住む場所があるとおっしゃっているのです。最初からずっと私たちの住む場所が沢山あるとおっしゃっているのです。イエス様は私たちの場所がないから神様のところに帰って用意しに行きますとおっしゃっているのではないのです。又もしも場所がないのなら私が神様の所に帰って場所を用意しますよ、でもそんな必要はないのです。何故なら最初から神様が沢山の住む場所を用意されているのですよ、と教えておられるのです。どちらであってもイエス様は私たちを一緒におらせてくださる。イエス様のおられるところに私たちをおらせてくださるのです。ただし、これから私たちのために用意してくださるというのと、既に最初から私たちのために場所が用意されているとは、同じ様であっても全く違うのです。

2)私は道 
 ところがどうしたわけでしょうか。人間はこんな単純なことにさえも自ら気づくことが出来ないのです。トマスが言っています。主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません、と。いつも人間と神様との間にこのことがあるのです。これが聖書のいう罪ということなのです。イエス様には分かることが、私たちには分からないのです。何故なら神様と私たち人間が断絶しているからです。しかしイエス様はご自分を通して、人間世界が神様とつながる道となっています。分からない時があってもイエス様について行くのです。真実が分かります。神様こそが真実の偉大な真理です。その神様も、神様の愛も分からない、それは間違いなく私たち人間が神様と離れてしまっているからです。イエス様は、私と一緒に行きましょう。そうすれば全てが分かるようになります、と教えておられるのです。

3)既に父を見ている 
 山本五十六という有名な人がいらっしゃいます。聖書を読んでおられたそうです。山本五十六さんは、「人間というものは、やって見せて、言って聞かせて、やらせてみて、誉めてやらなけれ動かじ」とおっしゃっています。誰もが知らないことは、やって見せたり、言って聞かせてくれたりする人がなければ、誰も知ることができません。ただそれだけで終わりではありません。自分が教えられ、聞いた事を自分自身が体験して見る、追体験するという事が不可欠です。もちろん失敗もあるでしょう。そして成し遂げられた時に褒められる。達成された喜びがなければ人は成長しないとおっしゃっているのです。信仰も同じです。誰か伝えてくださる方がなければ誰も知ることは出来ません。わたしたちのためにイエス様が全てを与えてくださったから、私たちは神様を知ったのです。そして私たちも神様を信じること、従うことなくして、神様を知るは本当のものとなりません。ただ、信仰の道は、他の事柄と違って、確かめようがない事柄も多いのです。最後まで信じてこそ分かることがあるのです。イエス様が教えてくださるように、神様は最初から私たちの場所を用意してくだっています。神様は最初から私たちを愛してくださっています。神様は最初から私たちと一緒におられるのです。ただ私たちには見えないだけなのです。イエス様が私たちを導いてくださいます。一緒に歩んでくださいます。イエス様の進む先に、私たちは神様を見るでしょう。