2017年7月23日 朝礼拝 『イエスの事は知っているが』大賀幸一牧師

エレミヤ書7:1-7、使徒言行録19:13-20

1)お前達は何者だ 
 第3回伝道旅行、アジア州エフェソの町でのことです。パウロを通して多くの奇跡、癒しが行われていました。そんなパウロたちの神がかり的な癒しに嫉妬したのでしょうか。ユダヤ人たちの中に治療行為として各地を巡って祈祷師のようなことを行う人々があったようです。その人々はイエスの名によって悪霊に退治しようとしたというのです。ところが悪霊は言います。イエスも、パウロも知っている、だがお前たちは何者だ、と。悪霊が問いかけた「お前は何者だ」とは、私たちにも向けられています。

2)パウロが述べて伝えているイエス 
 パウロによる目覚ましい癒しを見て驚嘆し、ユダヤ人祈祷師たちはイエス様の名を唱えたのです。彼らはイエスの名前に何か力が秘密があると思ったようです。パウロに特別な癒しの力があると。全く違うのです。しかし本当に癒しの力があったならと思う時が度々あります。愛する兄弟姉妹が病床に伏した時です。私たちは愛する兄弟姉妹のために必死に祈ります。でもいつも祈るたびに思うことがあります。自分はなんて無力だという事です。私には何の力もありません。ただただ神様に兄弟姉妹の癒しを求めて祈るだけなのです。ところが牧師などをやっておりますと、不思議なことがあります。以前の教会である兄弟が入院されました。肝癌の最終ステージだという事でした。それを聞いた私自身はもうだめだと思いました。今は肝臓癌を患われても治療手術が出来ますが、以前は肝臓の治療は困難でした。もちろん病床に行って兄弟のために一生懸命祈りました。ところが祈った時に感じたのです。この人は元気になる、と。何がどうなってそうわかったのかは誠滅出来ないのです。聖霊が示してくださったという他ないのです。私はこの兄弟はだめだと思って祈っていたのですが、祈っている最中にこの兄弟はまだまだ生きるのだ、と神様が示してくださったのです。兄弟は大手術を受け回復され、その後2年元気に過ごされました。ですから私の祈りが兄弟に癒しを与えたのではありません。私は逆に教えられたのです。神様から希望を捨ててはならない。この兄弟は生きるのだと。

3)主イエスの名は大いに崇められる 
 私たちはこれからも愛する兄弟姉妹たちのために祈りを合わせて行くでしょう。その時私たちは主イエス様の名前を通して祈ります。イエス様の名前が祈られるのは、イエス様が私たちと神様との間にどのような時もあってくださり、執り成してくださるからです。執り成してくださるというのは、神様と私たちの間には応答があるという事です。ただ一方的に神様からのご意志が示されるだけでなく、ただ私たち人間からの身勝手な願いや怒りや恨み言が一方的に神様に流れるだけではないのです。先週のメッセージにもありましたように、神様は私たちの叫びと祈りを聞き届けてくださるのです。私たちの声を聞いて、それに応答してくださるのです。私たちは神様が、私たちに必要なことを誰よりも知っておられて、私たちに何が必要かを備え与えてくださる方だと信頼して祈っているのです。神様は私たちに必要な道を与えてくださるのです。だから神様以外に私たちは信じるべき方を持たないのです。聖書には神様を信じていた人たちの中にも、自分たちから魔術を捨てたことが示されています。私たちは自分たちには何の力もありません。実に無力です。ただ私たちを誰よりも良く御存じの神様がおられるのです。私たちはこの神様を信じています。それは私たちには思いもよらないこと、自分の願いとは異なることであっても、神様が私たちに必要な道をあたえてくださいます。それが知りたくて神様に全てを委ねて、祈ります。それが私たちです。