2017年9月10日 朝礼拝 『蒔かれる時は朽ちるもの』大賀幸一牧師

列王記上 4:17-19、Ⅰコリ 15:35-52
1)漢文聖書初本版 
 今年6月京都市左京区北白川にあります東本願寺派円光寺で1冊の漢文聖書が発見されました。漢文聖書の初版本、『代表訳本』という貴重な聖書であることが判明したのです。1855年中国で布教していたプロテスタント教会代表者たちによって漢文に訳された聖書だったのです。当時聖書を所持することも読むことも禁じられていた時代でした。明治政府はキリスト教禁令を解くに当たってキリスト教会にスパイを送っていました。スパイになったのは東本願寺のお坊さんたちでた。お坊さんたちは教会の役員にまでなったと明治政府公文書が残されています。スパイを送り込んで何が知りたかったのでしょうか。キリスト教会の事を知りたければ、聖書を読めばそれでよいのです。

2)聞き分ける心 
 キリスト教が求めることは、今日の旧約聖書に示されています。新たに王となったソロモンの夢の中に現れた神様がソロモンの願いを適えようとしてくださいます。ソロモンが神様に願ったのは、正しく聞き分ける心です。神様はソロモンの願いを聞いて大変喜ばれました。私たち人間が神様に願い求めるのも同じではないでしょうか。もちろんその基本は、わたしたちがいつも神様の御声を聞いて生きているということです。正しく聞き分ける心、知恵は、わたしたちが神様とつながっているからこそ生まれえるのです。いつも神様の御言葉を聞く中に養われるのです。聞き分ける心を求めるなら、神様はおまけで、富も栄光も長寿も与えてくれます。

3)蒔かれる時には朽ちるもの 
 わたしたちがキリスト教を通して神様に求めている最大の事は、命です。復活する命です。私たちの命は永遠ではありません。いつか終わりの時を迎えます。しかし、それで命は終わりではありません。神様は私たちの命を復活させられるのです。コリントの信徒への手紙、「あなたがたが蒔くものは死ななければ命をえないではないか」「あなたが蒔くものは後で出来る体ではなく、ただの種粒です」私たち人間は、大地に種を蒔き、今収穫の時を待っています。私たちが蒔いたものは、実に小さな種ではありませんか。この小さな種から美しい花が、美味しい果実が生まれて来るのです。しかもこの一粒の種が死んで、その姿形が見えなくならないと、美しい花も果実も登場しないのです。42節「死者の復活もこれと同じです、蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時には卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです」。この世界でも、それぞれの命、個体が死にます。しかしそれは終わりを意味していない。必ず新しい命が現れる。新しい個体が生まれているのです。どの命も最初は朽ちる命、自然の命の体です。それが死んで霊の体が復活するのです。霊というのは見えないものですが、見えないから何も無いのではなく、実体がちゃんとある。最初の人間から死が世界に蔓延しました。ところが第2の人間から命、生が始まるのです。神の国を受け継ぐのは朽ちないものです。それは永遠に神様に愛されて共に生きるということです。朽ちない体を与えられて天国に入るということです。パウロさんは、私たちも一瞬にして今とは異なる状態に変えられます、と教えています。私たちが変えるのではありません。神様が私たちを変えてくださるのです。