2017年9月24日 朝礼拝 『誰が十字架につけられた』大賀幸一牧師

エゼキエル37:15-28、Ⅰコリ 1:10-17
1)創立記念礼拝 
 1904年(明治37)9月27日午後5時30分から京都基督同胞教会の第1回教会総会が開催されました。そこには京都丸太町教会はどのような教会であるべきかが決議されています。先ず日曜日の礼拝は朝夕2回行う。朝礼拝は聖書講義を行い、夕礼拝は伝道説教をする。祈祷会は金曜日に行う。日曜日の夕礼拝は青年会が責任を負う。春秋年2回特別伝道を行う。総会は毎年9月に開く。こうして京都丸太町教会は生まれ、午後8時30分総会は終了しています。毎週の朝夕の礼拝、祈祷会を大切に守り、福音伝道を行う教会であり、教会の兄弟姉妹たちが宣教伝道を担って行く教会ということです。113年を迎える今も大事に受け継がれています。

2)コリント教会 
 コリント教会の女性信徒、クロエから知らせがパウロの元に届きます。コリント教会が分裂しかかっているという知らせです。その原因の一つは、自分はいったい誰から洗礼を受けたのかということと関連している様です。自分はパウロから洗礼を受けているとか、アポロから洗礼受けているなどということが教会の中で分裂をもたらしていました。パウロは、キリストは幾つにも切り裂かれてしまったのでしょうか?あなた方の間では、十字架につけられたのはナザレのイエスではなく、タルソスのサウロだとでも言っているのでしょうか。あなた方の教会ではイエス・キリストの名によって洗礼を受けるのではなく、パウロの名前によって洗礼を受けているのですか?と言っています。もちろんイエス・キリストは唯一な方です。十字架につけられたのはナザレのイエスです。このイエス様を信じて、イエス様の名前によって洗礼を受け、神様とつながるものとなったのです。つまりコリント教会では、どうしてかイエス様が失われてしまったのです。わたしたちの教会の十字架からイエス様がいなくなり、私たちが洗礼を受ける時、イエス様の名前が失われ、私たちを神様と仲直りさせてくださる仲介者がイエス様でなくなってしまっているのです。私たちが洗礼を受ける時に大事なのは、誰から洗礼を受けたかが大事なのではありません。イエス様の名前によって洗礼を受けたかどうかが大事なのです。イエス様はご自分の全てをかけて私たち人間を償ってくださいました。ご自分の命で私たちを贖い、買い取ってくださったのです。それは唯1度限りの完全な出来事です。ですから私たちもただ1度だけ、イエス様の名によって洗礼を受け、神様につながる者となったのです。ところがコリント教会の様に、いつの間にかわたしたちは、私たちの前に、共にいたイエス様を失ってしまっているのです。

3)墓前礼拝埋葬式 
 墓前礼拝において11名の兄弟姉妹たちが教会墓地に埋葬されます。当教会の墓地は合葬式という形式です。つまりみんな一緒に入るのです。良くあるのは骨壺を安置する形式です。骨壺のまま安置すると結構長くお骨はそのままです。又教会墓地を共同墓地と言う方があります。私たちの教会墓地はそのどれでもありません。わたしたちはイエス様によって神様と一緒にいるのです。家でも血縁でも民族でも性別でもない。誰もがイエス様によって一つになって神様と一緒にいるのです。それが私たちの教会墓地です。又私たちの骨も体も骨壺のままでなく、みんな愛する兄弟と一緒になって、神様の創造した地球の大地になって行くのです。いつの間にか私たちの前にいた、私たちと共にいたイエス様がいなくなる。そんなことが私たちにあってはなりません。そして、私たちは、人間の知恵と力ではなく、神様を信じて、神様と共に福音を伝えて参りましょう。