2017年10月1日 朝礼拝 『神様に愛されているこども』大賀幸一牧師

出エ 20:1-17節、エフェソ 5章1-5節

1)神の御言葉 
 出エジプト記20章、いわゆる十戒と呼ばれる神様の10の言葉です。十戒は、出エジプト記34章にも申命記5章にもあります。出エジプト記34章のモーセが十戒を再授与された時の十戒は異なっています。出エジプト記20章には、神の御言葉が10個あるとは示されていません。34章には10個あると示されています。又ユダヤ教、ローマカトリック教会、ルター派教会は17節を2つに分けます。ユダヤ教は2節が第1戒です。ローマカトリック教会は3~6節を1つと解釈しています。多くのプロテスタントキリスト教会では、3節から第1戒、4節は第2戒、7節が第3戒、そして17節は第10戒となっています。このように神様が私たちに与えられた戒め、私たちが生きるために、命を保つために与えられた神様の御言葉、その基本となる十戒においても、教会により、人間によりそれは異なっていて一致していないのです。又殺してはならない、はキリスト教徒の中で遵守すべきで、他の信仰者たちには適用外でした。一人の人がイエス様に神様の戒めで何が1番ですかと尋ねられています。イエス様は第何番の戒めが一番重要だという言い方はなさいませんでした。神様の戒めで何よりも大事なのは神様を愛すること、そして隣人を愛することこの二つだと示されました。人間はよく順番をつけたがります。番号を振ってみたり、順位をつけて見たりします。しかし、神様が与えられた御言葉には順位はありません。番号もついていません。イエス様も同じです。どれも神様は私たちに必要だから御言葉を与えて来られました。番号も順番もありません。私たちの命が保たれるために神様の御言葉、戒めが必要なのです。

2)神様に愛されているこども 
 エフェソ書を読みます。私たちは神様に愛されているこどもたちです。私たちはまだこどもです。しかも神様に愛されているこどもなのです。こどもたちは、まだ未熟ですから大きな愛に守られています。成長するために導かれています。それが私たちなのです。今も神様の大きな愛に守られて、私たちの人生があります。神様に倣う者となりなさい、と勧められています。神様、イエス様はいつも私たちを愛し、本当に寛容です。いつも私たちのために忍耐されます。赦してくださいます。だからあなたがたも同じように寛容で、忍耐し、愛し、赦しなさいということです。4節には聖なるものに相応しくないことを話さず、感謝を表しなさいと教えています。感謝、この言葉はどの言語にもあるそうです。一般に人間社会の中で大切にされなければならないのは、感謝です。自分一人で何でもできると傲慢にならず、多くの人々に支えられ、愛され、守られていることを覚えなさい、と教えられるからです。それ故私たちは自分たちも誰かを支え、守って行きたい、自分の力を社会の中で生かしたい、誰かのために役に立ちたいと思います。その原点は感謝です。以前ある教会の祈祷会でエフェソ書のこの箇所を読んだ時、こういう御言葉が登場すると一般の社会人は困るのですとおっしゃられました。少しぐらいはバカな話や下品な話も会社では登場するからです。この話の奥底には、信仰者たちが生きている社会から切り離されてしまってはいないだろうか、と言う問いかけだったのかもしれないと思っています。神様を信じる者として社会に生きている、この社会がどうなっても構わないという事はありません。神様への大いなる感謝から出発して、私たちがなすべきことを私たちの京都に、日本に、世界にして行きたいのです。