2017年11月5日 朝礼拝『罪は戸口で待ち伏せている』大賀幸一牧師

創世記 4:1-10、マルコ 7:14-23

1)目を留められた 
 聖書にも大事な選択、選びというテーマがあります。しかも選ぶのは神様です。ところが神様が選ぶということは、選ばれなかったものが必ず出て来るのです。そのことは大変な問題なのです。アダムとエバの夫婦に、カインとアベルという息子があります。カインは父アベルの後を継ぎ、大地を耕す農夫となります。弟アベルは、家畜を飼う者となりました。そしてカインとアベルはそれぞれ神様へ感謝の献げものをしました。ここで大問題が発生します。アベルの献げものに神様は目を留められました。カインの献げものは神様に選ばれなかったのです。カインの献げものが選ばれなかった理由はどこにあるのでしょう。良く言われるのが、アベルは良く肥えた初子を神様への献げものとしたが、カインは神様への献げものに何か不正があったのだ、というのです。3節、時を経てとありますから、カインも季節を経た最も良い時期の実りの初物を神様へ献げものとしたのです。では何が問題だったのでしょう。アベルとエバが、神様に背いた時に神様は何も語らなかったのですが、カインに対して激しく語りました。それでもカインは、怒りを治めることが出来ず、弟アベルを殺害してしまいます。その結果、カインは、アダムとエバと同じく、自分の犯した過ちを認めることはありません。カインは、アベルの事を知らないと言っています。私は弟の番人ではありません、と。アダムが生まれた時のこと、神様はこの世界には人間が必要だとして、大地を耕す人間を創造されたのです。アダムは神様に背いて楽園を追い出され、カインはアダムの後継者として大地を耕して来たのですが、カインも又神様に背き、大地、自然と関わることが出来なくなりました。そればかりか、カインは、家族との関係を自ら捨てました。共にこの世界で生きて行くべき家族であり、隣人との関係をも、カインは、私は知らない、番人ではないと否定したのです。これが善と悪を知るようになった人間の姿です。善と悪を知り、善だけを行える人間ならが良いのですが、善を行う事も出来ず、悪を退けえることも出来ない人間になってしまったのです。人間は自らの意思で善悪を知ることを選びました。ところがその人間は善を選ぶことができるものでもなく、悪を退けるものでもないのです。それが神様の愛に背いた人間というものの姿だと聖書は教えています。如何に矛盾している事でしょう。命を大事にし、命を保つ道を選べばよいはずなのに、命を選ばず、滅びを選んでしまっているのです。滅びを選ばないために人間は何をすべきか、神様の御言葉を取り戻すことです。神様の御言葉に聴くことなのです。

2)それを支配施せねばならない 
 カインとアベルの物語で、神様は、カインに対して語りかけています。選ばれなかった側のカインに語りかけるのです。選ばれた側だけに神様は語りかけている、と言う事はありません。逆に神様は選ばれなかった側に語りかけています。神様はカインにアベルを殺させたくありません。カインは間違ってはいないのです。カインは正しく歩んで来たのです。だから神様はカインにアベルを妬み、憎んでは欲しくないのです。アベルが選ばれたことを歓び、祝福する者になって欲しいのです。しかしカインの心の中から湧きあがって来るのは妬みと憎しみです。あなたの心の中から出て来るものに汚されてはならないからです。神様は私たちに語りかけます。選ばれた者だけではなく、選ばれなかった者に語りかけています。