2018年1月14日 朝礼拝 『ヨハネから洗礼を受ける』大賀幸一牧師

出エジプト14:15-22、マルコ 1:9-11

1)出発させなさい 
 初めは誰もが自信など最初から持っておりません。不安だらけであります。私も伝道者として大阪、香里ケ丘教会で新しい出発をした時、本当に不安でいっぱいでした。1か月後には胃痙攣を起こしたぐらいです。そんな教会を大きな時代の波が押し寄せました。当時昭和から平成に変化しようとした時代でした。つまり天皇代替わりの時代だったのです。この時教会の中が二つに割れました。新しい天皇が誕生する時には必ず大嘗祭という儀式があります。そこでは生きている人間が神様になる儀式なのです。これはキリスト教信仰からすると間違った考えです。わたしたちは、神様だけを神様とする信仰に生きているのです。間違っても人間を神様とはしないのです。その点は誰もが認めることです。しかしこの日本社会の中で少数派に過ぎないキリスト教会が天皇制に対して批判的なことを言って伝道が出来るだろうかという意見と少数派であっても私たちの信仰から証言、信仰告白をすべきだという意見が真っ向から対立した時期がありました。そんなこんなで教会の信頼関係が全く崩れ去った時期があったのです。信仰と何の関係が無いのなら無視して構わないのですが、やはりどうしても信仰と関わりのあることがらです。しかし結果として教会に不安と混乱だけが残ってしまいました。そして不安と混乱だけでは教会は成り立たないことを痛感しました。今日は皆さんに少々不安を与えてしまったかもしれません。ただ教会はこうしたことを経験し、乗り越えて来た、と申し上げることが出来ます。わたしたちは神様を信じる信仰者としてこの世界に生きている中で、私たちに起こって来ることは、神様を信じているのに何故このようなことが私たちに起こるのか、ということが起こっています。今日の出エジプト記をご覧いただいたように、神の民たちはどこに行くのかも知らないまま出発し、すぐさま危険な状態に陥りました。前には海、後ろには戦車と騎兵。どっちにも勧めない状態です。前方の海で足を止められ、いつの間にか自分たちの後ろには命を脅かすものに迫られ、危機に陥っているのです。神の民たちはどうするのかと騒ぎ始めます。もちろん戻ろうとする人々も出て来ます。しかしそれは現実的ではありません。そのようなことは決して許されないからです。後ろから迫る戦車と騎兵は、無残に命をむさぼるからです。ではどうするのか。神様は、出発させなさい、と言っています。どこに出発しろというのでしょう。行き場がないから困っているのです。しかし道はあるのです。道は生まれるのです。与えられるのです。道がないとして、そこに留まっていても道は当然ないのです。何か分からないけれど進んで行く中道が生まれて行くのです。不安と混乱だけでは何も進まないし、道も生まれないということです。神様を信じること、神様への祈りを失っては、道は開けないのです。ただこうした危機的な状況でも良いことがあります。誰もが決断させられるということです。

2)私の心に適う者 
 ただ間違ったものに従ってはなりません。その点私たちが従うのはイエス様であり、真の神様です。イエス様ご自身が進んで洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて、わたしたちの仲間となってくださいます。私たちを導いてくださるイエス様がいつも私たち共におられるのです。ご自分の全てを持って私たちを導き、ご自分の全てを持ってあらゆるものに勝利されているキリストが私たちをいつも導いてくださっています。この方に従って行きましょう。