2018年1月28日 朝礼拝 『たとえで色々と教え』大賀幸一牧師

箴言 2章1-9節、マルコ 4章1-9節
1)教えるイエス様 
 イエス様が私たちを教え、養う方法は、対話によって私たちを導く、という方法です。イエス様が時に、あなた方はどう思うか?と問われることがあります。私たちを促し、私たちを更に高めるために導いてくださっているのです。それは決して一方的なものではなく、私たちにぴったり合った形を取られます。逆に旧約聖書における神様が人間たちを教え導く形は、教え諭すという方法です。これには、もし従わない場合には、戒め、罰が伴うものです。しかしこれは両刃の剣です。神様の教えに従わない場合、神様のお叱り、怒り、罰を受けるのは、真に神様を知ることにつながらないのです。ただ恐怖だけを与えることに終わる場合が強いです。わたしはこどもの頃親に叩かれて勉強をさせられました。叩かれるのが恐ろしいからと必死に勉強しましたが、残念ながらその時に覚えたものが今どれだけ残っているかというと皆無です。自分で知りたい、求めたいと学んだ事柄から比べると残る者ほとんどありません。こどもの頃はそれが親の厚い愛情だとは思っていなかったのです。私たちのイエス様は、神様とは違う方法で、私たちを養います。イエス様と対話する中で、私たちが気づかなければならないことへと導かれる、私たちを必要な方向へと向けてくださる、そういう育て方をしてくださいます。しかしこれは大変骨の折れる事業です。全く興味もない、やる気のないこどもたちに、学ぶ喜び、希望を持たせるという大事業だからです。これを可能にしているのは、イエス様との対話があるからです。イエス様との対話がなければ私たちの成長はないのです。もちろん私たちの成長というのは、霊的成長、魂の成長です。肉体の成長には既に限界が来ています。心の成長も次第に限界が訪れるでしょう。しかし、霊の成長には限界はありません。

2) 種蒔く人のたとえ話 
 今日のマルコ福音書に示されているイエス様がなさったたとえ話を通してイエス様は私たちと対話されています。あなた方はどう思うか?と。たとえ話は、私たちの成長に必要なのは、御言葉である、あるいは神様がイエス様を通して与えられた福音である、それが種蒔く人の蒔く種に象徴されています。種が蒔かれる場所に変化があります。道端、石ころだらけの土地、茨の生えてくる土地、そして良い土地です。種蒔く人がもっと注意深く全ての種を良い土地に蒔いてくだされば何の問題もないのでは、という疑問は愚問です。最初から良い土地などどこにありましょうか。最初は全て荒地です。イエス様との対話の中で、荒地が耕されて行くのではありませんか。又土地の状態を信仰自身の自己評価とする考え方もありますが、もし自分自身の状態が自ら判断できるのであれば、いっそうイエス様に従うべきです。しかしイエス様との対話抜きに、わたしたちが良い土地に、良い土地を用意することはありません。事実、私たちの状態は、時にすぐさま失い、根が無く、色々な事柄に心を思い煩っております。イエス様はそれがだめだと言っているのではありません。私たち自身の今の状態を、イエス様との対話の中で私たちは気づかされて参ります。そしてもちろん、その土地の状態ではこの先神様が与えてくださった御言葉は成長せず、いつかは失われてしまう事を知らされることになるでしょう。そして私たちはまたイエス様と対話する中で、耕されて、神の御言葉が100倍に大きな喜びとなる良い土地を用意することが出来るのです。必要なのは、イエス様と対話を続けることです。