2018年3月25日 朝礼拝『ゲッセマネの祈り』大賀幸一牧師 

イザヤ50章4-7節、マルコ14章32-42節

1)棕梠の主日 
 棕梠の主日を迎えました。ナツメヤシの主日です。今日歓喜を持ってエルサレムに迎えられたイエス様は、木曜日最後の晩餐を弟子たちと共に行い。真夜中頃、弟子たちと共にいつもの祈りの場所、ゲッセマネで祈りし、その直後イエス様は、愛弟子であるイスカリオテのユダの手引きで逮捕されます。イエス様が連れて行かれたのは、大祭司カイアファ達が待つ屋敷です。そこで急遽設けられた臨時ユダヤ人議会によって、神様とエルサレムの神殿を冒涜した罪で死刑判決を受けます。またローマ帝国のユダヤ地方長官、ポンティウス・ピラトスのもとに連れて行かれました。大祭司たちは、この男は議会から死刑判決を受けました。尚ユダヤ人の王を名乗る不届きものですから処刑してくださいと要求されました。ピラトスはイエス様を釈放しようと努力しましたが、イエス様を十字架刑にするように命じたのです。イエス様は兵士たちに侮辱され、鞭打たれて、処刑場ゴルゴタへと連行されます。イエス様の処刑が始まったのは金曜日の朝。十字架刑は人間を死に至らしめるための処刑ではありません。処刑された者がいっそ殺してくれと泣き叫ぶ姿を群衆の前に晒すための処刑です。体がばらばらになりそうな激しい痛みと強烈な渇き、それ以上に大勢の人々の前で、罵声、嘲笑い、侮辱に晒されます。「他人は救ったのに自分は救えない。ユダヤの王よ、自分でそこから降りて来い、降りて来たらお前を信じてやろう」。イエス様は十字架の上で何一つ反論することも、罵ることもなく、黙って人々の声を聞いておられました。大祭司の前でも、ピラトスの前でも同じです。お前はユダヤの王なのか、との問いかけに対してイエス様の答えは、私は何も言っていない。それはあなたが言っていることです。イエス様は一切それ以上の事をおっしゃいませんでした。そして、イエス様は十字架の上で、地上の生涯を閉じられました。この1週間のイエス様の歩みを覚えることなく、来週のイースターを迎えることは出来ません。人間たちは、十字架にかけたイエス様から、その苦しみの故に、助けを求める懇願を、泣き叫ぶ声を、または人間たちの頑なさを嘆き呪う言葉を聞けると思ったのかもしれません。しかしイエス様は一切叫びを上げられません。唯一イエス様の言葉は、父よ彼らを赦してください、との祈りでした。処刑されるイエス様を見ていたローマの百人隊長は、イエス様が神の子であると発言しています。十字架刑がどれほど極刑であるか知っているからこそ、十字架のイエス様の姿が何を示しているか読み取ったのです。イエス様は、人間たちの声を全て受け留め、全てをお赦しくださっています。イエス様の流された血が世界を清めたのです。

2)ゲッセマネの祈り 
 時間は戻って、イエス様が逮捕される直前、オリーブ山の祈りの場、ゲッセマネ。イエス様の目には、これから起こること全てが映っていたでしょう。この杯を取り去ってください。十字架にかけられる恐怖だけではありません。この後も人間世界がイエス様と共に越えて行かねばならない道を見ておられたからです。蔑みの中を、侮辱の中を、神様を冒涜する言葉の中を、不信仰の中を人間たちが道を進んで行かねばならないからです。本来十字架はイエス様ではなく、人間自身が受けなければならない道だからです。しかしイエス様と共に歩んできた弟子たちでさえも共に進むことは出来ません。イエス様は唯一人で十字架の道を進みました。人間たちがもはや同じように十字架の道を通らなくても良いように。わたしたちは、今日も、このイエス様の愛と命に支えられて、歩んでいるのです。イエス様に感謝いたしましょう。