2018年4月22日 朝礼拝 『新しい掟を与える』大賀幸一牧師

レビ記19章9-18、ヨハネ13章31-35

1)栄光を受ける 
 今日ヨハネ福音書は、イスカリオテのユダがイエス様の差し出したパン切れを受け取って出て行くところから始まっています。またイエス様は弟子たちに、私が行くところにあなたたちは来ることが出来ない、とユダヤ人たちに行ったように、あなたたちにも言っておくとおっしゃっています。この出来事は、ヨハネ8:21以下にも話されていました。神の民ユダヤ人たちの間には、イエス様に対する評価が割れていました。イエス様を神の預言者あるいはと思い信じようとする人々と全くイエス様を信じようとしない人々がありました。イエス様はそのどちらに対しても、あなた方は私の行くところに来ることが出来ない、と話されたのです。それはイエス様が去って行こうとしているある場所について言っているのではありません。ユダヤ人たちが頼りとしているのはその血です。神様と契約をしたアブラハムの子孫であるという事です。そのアブラハムの子孫のために神様が遣わされたイエス様を認めることも信じることもしない人間に、いったい何が与えられるでしょう。もちろん私たちはイエス様が立っておられる同じ場所に到達することが出来ると考えている訳ではありません。そんな所には辿り着くことなどできなくても、神様が私たちのために送り出してくださったイエス様を信じることが出来ます。イエス様を認めることが出来ます。信じることも認めることもない人間には、たとえアブラハムの子孫だと言ってもイエス様を否定する者には、触ることさえ出来ない場所があります。逆にイエス様を信じ、認めるなら、人間の力では到達できないその所にいることを認めてくださる、イエス様が連れて行ってくださる、というのが神様の御業なのです。弟子たちとユダヤ人との間にははっきりとした違いがあります。どちらもイエス様に対する裏切りがありました。しかし弟子たち“はすでに”イエス様を信じ従っているという事実が決定的に違います。しかしどちらもイエス様が不在の場面に出合うことになります。その時こそ、イエス様は私たちに必要なのは、互いに愛すること、だと教えます。

2)しようとしていることを 
 神の民、神様を信じる者たちは、いつも試練を受けます。神様を信じることを選択するかどうかという試練です。それは神様に背き続けている私たちが、神様に赦しを求めることでもあります。私たちは神様の愛に背いています。何度悔い改めても、又同じような過ちを犯しています。何度私たちは悔い改めれば良いのでしょうか。時には同じことの繰り返しに嫌気がして来ます。諦めてはなりません。神様の不在の時、私たちは不安を感じ、不信の思いになります。イエス様がおられない時も同じです。そんな神様の不在の時に、私たちの中に偶像が入り込んで来ます。神様ではないものが偶像として私たちの中に入って来ます。それは、まだまだ私たちが神様を信じられない証拠です。神様としっかりつながっていないことの証拠です。イエス様の様にどんな時も神様と一緒にあることが出来ません。ただ神様が不在なのではなく、イエス様が一緒にいないのでもありません。人間が神様が不在だとしてしまっているだけです。どのような時でも神様は私たちと共におられます。神様はいつも私たちを愛しています。それを感じられない、知ることが出来ないのが、今の人間の限界、神様に背いた人間の姿なのです。しかし神様はいつも私たちと共にありますし、私たちを愛しています。ここに信仰が必要です。