2018年4月29日 朝礼拝 『私は真の葡萄の木』大賀幸一牧師

出エ19章1-6、ヨハネ15章1-11

1) 真の葡萄の木 
 家電の世界では新機種が出ると旧機種は廃棄だそうですが、今日のヨハネ福音書を読みますと、信仰の世界においても似たようなことが記されています。実を結ばない枝は取り除かれる。実を結ぶものは手入れをなさる、と。でもご安心ください。この2節の御言葉は、本来はあり得ないことをおっしゃっているのです。イエス様につながるものとなった人間が、実を結ばないという事はあり得ないからです。イエス様につながっている者は皆豊かな実りを持つからです。15章には、“つながる”という言葉が9回出て来ます。9節からは、“留まる”が3回登場します。実はこれら全て同じ言葉、留まる、です。そして、最初に2節だけは留まるという言葉がありません。私の中にありながら、とあるだけです。本来は、留まる、残る、という意味です。私につながる、私に留まる、どちらかというとつながる、というのが現代的で、留まるは固定されているような意味合いがあります。そこにはイエス様と私たちとがどんな具合に結び合せられているかが示されているのではないでしょうか。私たちがイエス様とつながっている、という時、イエス様とは確かにつながりあるのですが、イエス様は決して私たちを束縛しようというのではなく、私たちに自由に歩むことを与えてくださる様に思われます。片や留まる、というと、私たちはイエス様にしっかりと愛されているのですが、がんじがらめになっているような感じがしますが、全くそうではありません。留まる、とは、イエス様が私たちの中にイエス様の何かを残してくださっている、という意味です。又同じように私たちもイエス様の中に私たちの一部を残しているのです。お互いの中に、お互いの命の中にそれぞれが留まっている、残っているのです。イエス様の中にも私たちの一部があるのです。そんな状態、関係性、つながりを求めてイエス様は私たちに教えているのです。イエス様とわたしたちとがそんなつながりの中にあるのなら、もう何も心配することはありません。私たちは決してイエス様から離れることはないのです。

2) 私の中に留まりなさい 
 イエス様と私たちとの間に、留まるという深いつながりがあることを覚えてください。私たちがイエス様の中に留まっている、残っているのです。そしてイエス様も私たちの中に留まってくださっています。互いにその一部が、大切な何かが留まりあって、つながっているのです。既に私たちの中にもイエス様の一部が残されているのです。イエス様が私たちの中に留まっているというのは、イエス様が私たちを認め、愛してくださっているからです。このつながりをもたらす方法は何かというと、3節にありますように、イエス様の語られた言葉、御言葉がもたらすものです。御言葉が既に私たちを清くしているのです。清く、とは私たちが汚れているのではなく、私たちを認めている、愛しているという意味です。イエス様との深いつながりを保っているのは、イエス様の私たちに与えられる御言葉です。私たちは既に清い、神様が愛してくださるほど清い。イエス様が私たちの中に留まってくださいます。私たちもイエス様の中に留まりましょう。イエス様の喜びが、私たちの中に留まり、残されているイエス様の命からあふれ出て来ます。イエス様が私たちの中に留まっているからです。