2018年6月3日 朝礼拝 『40歳を過ぎていた』大賀幸一牧師

歴代誌下15:1-8、使徒4:1312-31

1)美しい門の出来事 
 美しい門である事件が起こりました。当時40歳過ぎの生まれつき歩くという経験のないしょうがいのある男性が、エルサレム神殿、美しい門の側で人々に寄付を募っていました。それがこの男性の生活費だったのです。当時の平均寿命は25歳程度と言われています。40歳過ぎとは長生きなのです。丁度通りかかったペトロとヨハネによって男性は神様の恵みを受けて、自分で歩けることとなりました。このことは大騒ぎとなり、当局は男性が何故歩けるようになったのか、ペトロたちを召喚して審問を開いたのです。地位のあるユダヤ人たちは、ペトロとヨハネが、あのナザレのイエスの弟子であることを知りました。また無学で普通の人と知りました。無学で普通とは、文字を知らないということ、学問をする余裕などなく生きて来た人々という意味です。ペトロたちと40歳過ぎの男性の出会い。これも神様の御業です。そこには大きな意味があるのです。40歳過ぎとは、平均寿命から考えて、残された時がそうある訳ではないでしょう。長くしょうがいがあって歩くことが無かった男性。しかし彼の喜びから考えても、この出来事は大いに意味のあることです。高齢になってから大きく環境が変わることは望まれないことですが、この出会いは人生において重要な事柄を示しています。高齢でもしょうがいがあっても神様は大切な出会いと大いなる恵みを与えられることを示しています。

2)神様に従うことが正しいこと 
 ペトロとヨハネは、地位あるユダヤ人たちに以後何もしゃべるなと脅されますが、ペトロたちは神様に従わないで、あなた方に従うことが神の前に正しいかどうか考えてください、と訴えています。これはユダヤ人だけにペトロたちが訴えているのではなく、世界中の人々に訴えているのではないでしょうか。神様が出合わせてくださったことを無いことにする、意味のないことにすることは出来ません。そこには大いなる意味があるからです。神様が示し語り、見せてくださったことを人々に話すとこを力で脅し、止めさせることは出来ないのです。神様がおられるのですから、私たちは神様に従うのです。ペトロたちは再び仲間の元に帰って行きました。ペトロたちはイエス様を信じる仲間たちと一緒に祈っています。地上の人間たちはこぞって神様に逆らい続けて来ました。神様がお遣わしになったイエス様にも逆らい続けて来ました。しかし今こそ私たちに大胆に御言葉を語ることを与えてください。神様がおられることを大胆に証しさせてください。
  先日、ある人から、神様はいつも私たちと共にいてくださると教えられています。なら何故私たちは教会に、礼拝に行かなければならないのでしょうか、と問われました。みなさんはいかが思われるでしょうか。確かにこの問いは一面では正しいように聞こえます。神様はいつも私たちと共におられる、その通りです。神様の御恵みを受けて、神様が私たちを愛していることを私たちは知ったのです。ところが人間は教会や礼拝を守ることの意味をいつしか失ってしまうのです。人間はもう神様を知ったから、神様に助けてもらうことなく自分の力で正しく生きて行くことが出来る、と勘違いを起こしてしまいます。そこが人間の罪、と指摘されてきた点です。私たちは、神様に愛されている私たちがいつも神様と共にあることを確認するために、教会に、礼拝に招かれているのです。もう神様の助けはいらないと思う人は、聖書の中に沢山出て来ましたし、これまでも無数にいました。神様の助けはいらない、自分で出来るという人は、結果的に神様から離れて行きます。イエス様に教えられ、人間は神様と共に生きるものだと確信しています。私たちの命には神様が必要なのです。これは全ての人に共通しています。どんな時代でも、人間には神様が必要である、これは変わりません。この事を覚えて続けるため、忘れないために私たちは、神様に招かれて教会へ、礼拝へ連なっています。それは命のためです。神様が共におられることを確認するため、確信するためです。偶像を取り除き、主なる神様への道を新たに致しましょう。