2018年7月22日 朝礼拝 『主の民全てが預言者なれ』大賀幸一牧師

民数記11:24-29、Ⅰコリ12:14-26

1)モーセと70人 
 神の民をエジプトから救い出したモーセも時には逃げ出したい時があったようです。度重なる問題発生、次第に高まる不平不満、そんなことが続きますと、モーセと言えども逃避したくなるものです。仕方なく神様は、モーセを宥めるために2つの解決策を与えました。一つは肉を食べさせるということです。しかも1か月も。もう一つは、モーセ以外に70人の神の民のリーダーたちを選び、彼らに神の霊を与えるという事でした。神様が70人に分け与えた神の霊は、新しい神の霊ではありません。モーセに既に与えた神の霊の一部を70人に分けるという形を取りました。神の霊というのは、分配できるものなのです。人間が神の霊を受けるとは、どういうことになるのでしょう。70人たちは預言状態になったが、長くはなかったと記されています。元から神様は霊なる存在です。その神様から霊を受けるとは、神様の一部が人間に与えられるということです。神様の中にあるものの、知恵、知識、慈愛、その全ての一部が人間に授けられるのです。正に神様との一体感、神様に愛されている実感に深く包まれることになったのです。ただここで事件が起こります。選ばれた70人のリーダーたちが全員集合していなかったのです。2人だけがまだ集合場所に到着しないままに、彼らもまた神の霊を受ける者となるということが起こりました。モーセの伝えた通りに集合していない者たちが神の霊を受けるという事態に、これはモーセの指導力、権威を弱めることになるのではとヨシュアなどは心配しているほどです。しかしモーセは言っています。私は神の民みんなが神の霊を受けるようになることを望んでいるのだ、と。今はまだ70人しか神の霊を受けられません。しかしもっと多くの人たちが神の霊を受けるようになれば、誰もが神様の事を知るようになります。誰もが神様と一体となれます。そうなったら、もう誰も神様から離れることなどなくなるのです。そのためには、神の霊そのものが選ばれた者を探し出します。そして祝福を与えてくださいます。

2)体は多くの部分から成っている 
 モーセに与えられた神の霊が70人の長老たちに分けられたのは、モーセ一人だけが全てを担うのではなく、皆で担うためでした。1コリント12章では、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています、と記されています。パウロは、私たちの命のような一つの命について教えています。一つの命は、私たち一人一人の事であり、一つの国や民族をも含めた一つの命、体について語っているものです。命を持ったひとつの体を構成するものは、皆同じ顔形ではありません。全く異なった多くの部分によって命を持った一つの体は形成されています。パウロが言うように、全部が眼でも耳でもないのです。多くの部分があって、一つの体であるのです。多くの部分がなければ、一つの体にはならないのです。ですから目が手に向かって、頭が足に向かって、御前は要らない、と言ってはならないのです。それでは、命を持った体にはならないのです。また他よりも弱いかのように見える部分こそが大事なのです。その部分は恰好が悪いからではありません。時には恰好が悪い様に見えるかもしれません。だからこそ恰好が悪く見える部分が何よりも大事なのです。恰好悪い部分は隠されたり、飾られたりする必要はありません。そのままで命にとって一番大事な部分なのです。教会も多くの部分で造られています。神様に招かれて、作られている多くの部分が一つに合わせられています。