2018年7月29日 朝礼拝 『罪と戦い地を流すほどの抵抗』大賀幸一牧師

申命記10:12-11:1、ヘブ12:3-13

1)神様の躾け 
 夏休みが続くと、次第にこどもたちもだらだらとしてしまう事でしょう。信仰者たちも、神様を信じるようになった驚きや喜びが次第に萎えて来ることがあるものです。気力を失い、疲れ果ててしまうようなことも起こります。最近では、信仰を卒業するなどという事を主張する人も出て来ていると伺います。ある程度その信仰の与えるものを吸収しますともう全てが分かったというかのように卒業してしまうという人がいるのだそうです。これは全くおかしな話で、神様を信じるという事は一生のものです。人間がある程度の段階になるまで信仰、神様が必要だという事ではありません。私たちは神様から生まれ、神様と共に生きて行くことが、人間の本来の道であることを知ったのです。ですから、私たちが人間として生きて行く限り、神様と共に歩み続けるのです。申命記には、神様に従う事は、あなたたちが幸いを得ることではないか、とあります。つまり神様を信じるのは私たちの幸福のためです。それなのに何故全ての人が神様に従わないのでしょう。何故神様に従った人々が最後まで神様に従い続けないのでしょう。神様に背いて、神様から離れてしまう人があるのは何故でしょう。

2)罪と戦い血を流すまで抵抗する 
 神様に従うことが人間の幸福であるのに、未だ人間は神様を見つけ出していません。
それは聖書の証言する“罪”のためです。人間は神様が分からなくなっています。神様を知りたくても、人間の努力では神様を知ることが出来ません。神様と人間の間に大きな断絶があるからです。私たち人間の側から神様の方に行くたくても、道がありません。大きな断崖が間を隔てているからです。誰かが橋をかけてくれなければ私たち人間には神様のところに戻れないのです。罪とは、決して人間の頭の中で起こっていることではなく、実際に私たちの生活、生き方に起こっている事柄です。ヘブライ書の4節に、あなたがたはまだ罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません、と証言しています。これは私たちの事ではなく、イエス様の事を証言しています。そして、イエス様が何故御自分の血を流してまで戦わざるをえなかったのでしょう。イエス様が戦ったのは私たちの罪と呼ばれる力なのです。イエス様はご自分の命をかけて戦われたのです。神様を知り、信じるようになったからと言って終わりではないのです。神様を信じるようになった私たちにもまだ罪の力が働いている事を感じないでしょうか。わたしたちを神様から、神の教会から離れさせようとしています。神様に従うことが人間の幸福につながるのに何故人間は神様から離れて行くのでしょうか。それは神様の愛とは違う力が私たちに働いている証拠なのです。人間が神様から離れて行く時、人間は神様に従うより自分に従う事を選びます。

3)神様の躾け② 
 神様は私たちを我が子として愛してくださいます。神様はわが子を愛するからこそ、我が子を鍛錬する。躾をするのです。愛するから厳しく躾けをなさいます。こどもたちが幸せになって欲しいからです。神様の躾は、神様にしかできない躾をなさいます。これまで神様の方を向いていなかった人間が神様の方を向くようにするために、神様が与えることとは、神様の御言葉です。神様は何時だってその御言葉を持って人間を導いて来られたのです。人間たちが神様の御言葉を聞く、御言葉を聞き続けること、それが私たちを神様へと向けさせて来たのです。