2018年8月5日 朝礼拝 『双方を自分により一つに』大賀幸一牧師

イザヤ11:1-10、エフェソ2:14-22

1)キリストは私たちの平和 
 エフェソ書に描かれている、二つのものを一つに、という状況は実に具体的な課題がイエス様を信じる教会の中にありました。二つものの一方は、ユダヤ人です。もう一方はいわゆる異邦人、ユダヤ人以外の人々です。パウロたちの伝道で生まれたエフェソ教会には、イエス様信じるユダヤ人も異邦人もいました。かつてユダヤ人と異邦人とは信じる神様が違いました。しかし今は同じくイエス様を信じ、神様を信じています。同じ教会で共に礼拝を守っています。そしてそれ以前から同じ町に一緒に住んでいるのです。同じ様にイエス様を信じているユダヤ人と異邦人ですが、未だに二つのグループの間に溝があります。それは表立って溝が現れている訳ではありませんが、ところどころにその溝が現れて来るという形です。ユダヤ人のクリスチャンたちは、自分たちは最初から神様の民であるという思いを持っています。自慢ではありませんが、先祖以来私たちは神様と共に歩んできたという自信のようなものがあるのです。片や異邦人クリスチャンたちにもイエス様を心から信じ、イエス様の与えてくださった恵みにより与えられた救いへの感謝があります。しかしユダヤ人たちとの間には何か一緒になれない溝があり続けているのです。17節に、キリストがおいでになった、という喜びと共に、遠く離れているあなた方、近くにいる人々と、分けられて書かれている部分が実際にあるのです。それはもちろんイエス様が来られる前の事であって、今は一緒にあるのです。それでも異邦人たちの中には、自分たちは神様から遠くにあったという意識があり、ユダヤ人たちは自分たちは神様の近くにあったという意識があるのです。もちろん、私たちはそこからイエス・キリストによって両方の者が一つの霊に結ばれていることを知らされています。私たちはもはやよそ者ではなく、神の家族、聖なる神の民の一員なのです。

2)小さいこどもが導く 
 イザヤ書11:6に、「小さいこどもがそれを導く」、と記されています。何故小さなこどもなのでしょうか。そこにはイエス様ご自身が、幼子のように神の国を受け入れることを求めた御言葉と同じ意図があるのではないでしょうか。私たちは既にイエス様によって一つ体に結び合されています。神様と和解させられています。私たちは既に使徒たちや預言者たちの土台の上に建てられているのです。それでも私たちが過去に、互いの壁と溝の間にこだわり続け、神様とイエス様が与えてくださった恵みを認めないのなら、古い自分自身の頑固さに固執し続け、自分の弱さに怯え続ける中に留まり続けるなら、私たちは、イエス様の与えてくださった和解と平和から遠ざかることになります。既に神様はイエス様を遣わして、私たちの間に和解を与えています。その溝を埋めてくださっています。自らの弱さに留まることなかれ、頑なになることなかれ、イエス様が幼子として私たちの先を進み、私たちを和解と平和へと導いておられるのです。信じて、前に進みましょう。