2018年8月12日 朝礼拝 『人よ、主は何を求めるか』大賀幸一牧師

ミカ書6:1-8、エフェソ4:17-32

1)私はお前に何をしたというのか 
 ミカ書をお読みいただきました。主なる神様は、御自分が導き、愛する神の民を告発します。「何を持ってお前を疲れさせたのか、私に答えよ」、と。神様の告発は続きます。「わが民よ思い起こすがよい」。私はお前をエジプトの国から、奴隷の家から贖った。モーセとアロンとミリアムをお前の前に遣わした、とあります。良く示されるのは神様が神の民を救うために、モーセを遣わした、あるいはモーセとアロンを遣わしたとあることです。しかしここでは、モーセとアロンとミリアムを遣わしたとあります。ミリアムはモーセの姉であり、預言者でした。しかし聖書においてミリアムの出番はそうはありません。モーセ誕生とその命の危機の時、ミリアムが大きな働きをして、モーセはエジプト人王女に助けられるという出来事がありました。そしてモーセに率いられた神の民が葦の海を渡るという出来事が起こり、後ろから迫るエジプト軍戦車は海の藻屑と消えて行きました。この時高らかにミリアムは神様の御業を讃えて歌っています。しかし、神様が神の民のために遣わされたのは、モーセとアロンとミリアムなのです。彼らは、人間の目には見えない神様の慈しみ深い御手を人々に知らせるために遣わされた3人でした。神様の告発を聞いた預言者ミカは言っています。私たちは神様の前に自分たちの罪の償いのために多くの犠牲の血を奉げることが必要であろうか、それを神様は喜ばれるだろうか。いや、神様が私たちに求めることはそれではありません。神様は償いを求めることも、人間自らの手による罪の清算を求めているのでもありません。元々私たちの罪は自分たちの力で支払う事の出来ることではないのです。神様の求めは、「人よ、何が善であり、主が何を求めておられるのかは、もう既にあなたに告げられている」と、預言者は語っています。“正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共にあゆむこと、これだと。”

2)新しい人を身に着ける 
 さらに読んでいただいたエフェソ書。そこには、私たちは新しくされたことが語られています。24節、神にかたどって造られた新しい人を身に着けよ、と示されています。私たちは既にイエス様によって新しくされています。そして神様によって新しくされています。それは私たちがイエス・キリスト様に結ばれたからです。イエス様に教えられて、私たちの中に神様の真理が流れて来たからです。いつまでも怒っていてはなりません。私たちは隣人に対して真実を語るべきです。悪い言葉ではなく、私たちには良い言葉があります様に。聞く人に恵みが与えられるような、役立つ言葉が私たちの間にありますように、と求めてられています。そして、聖霊を悲しませてはいけません。私たちを完成へと導くために遣わされた聖霊なる神様、聖霊が私たちを慰め、教え、導いているのですから、聖霊を悲しませてはいけないのです。わたしたちは、神様とイエス様によって、新しくされているのです。

3)へりくだって神と共に歩むこと 
 改めて、神様は愛する兄弟姉妹と共にいてくださっていると実感した1週間でした。そして神様が私たちに求めていることは何かが今日はっきりと示されています。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むことです」。私たちは、もう既にイエス様によって全く新しくされているのですから。