2018年10月28日 朝礼拝 『人の命は財産によって』大賀幸一牧師

ヨブ記38:1‐18節、ルカ12:13‐31節

1)神の経綸を暗くする 
 ヨブは神様から神の経綸を暗くする者、と叱られます。神の経綸とは、神様や国家の様な大きな御計画、神様の御心などを指している言葉です。実にヨブは、この神様の経綸を知ることを欲していたのです。皆さんご存知のようにヨブという人は本当に良く出来た人でした。財産に恵まれ、家族に恵まれていたかと思うと、その全てを奪われます。普通はこの時点でどうにかなってしまいそうです。しかしヨブは全てを受け入れます。元々私たちは何一つ持つことなく、裸で生まれてきたではないか、裸で帰ろう、と。ヨブが一番苦しんだのは、何故神様は何も語ってくださらないのか、ということです。周りの人間たちは、ヨブもどこかで間違いがあった、悪い所があったのだ、それを認めないのは傲慢だと言っています。ヨブが罪を犯さなかったのではありません。ヨブはいつも神様に赦しを祈って来ました。理由の見つからない責めを負わされることの辛さ、ヨブの抱える苦しみはそこにあります。神様がヨブに語り始めた時に、全てが分かったのです。

2)倉を新しく立てる人 
 イエス様は、新しい倉を建てようとした人の話をなさいました。その年の収穫は大豊作となり、持っていた倉には入りきらないことが分かりました。この人が考えたのは、今ある倉を壊して、もっと巨大な倉を新築するということです。時間と資金があるならば、たぶん誰もがそう考えるでしょう。しかしイエス様は、この人に対して否定的です。21節の結論から考えましょう。自分のために富を積んでも、神様の前に豊かにならない者はこの通りだ、とあります。この人の問題は、自分のために蓄えたけども、神様の前に蓄えなかったということです。全て自分のためにしようとした、のです。しかもこの人の人生は死を迎えようとしております。地上の倉に蓄えられたものは、一体誰のものになるのかとイエス様がおっしゃっています。この人は、今の倉を壊してもっと収蔵できるように新しい大きな倉を建てようとしています。しかしそれは本当なのでしょうか?今ある倉は実は私たちの肉体だと考えることも出来ます。この肉体に蓄える分は最初から決まっているのです。今ある倉を壊して、新しい倉、体を建てるとは、本当に人間に出来る事柄でしょうか。地上の人間にとって命とは、この肉体のことだけです。しかし命とは肉体だけではありません。今日でもテレビ番組で見られるのは、食べ物の話し、着るものの話し、そして健康、命の話しです。それだけ人間の関心はここから離れないということです。しかし如何に健康に過ごし、寿命を少しでも伸ばすかに関心があるなら、何故私たちはこの肉体の寿命の先にある命に関心をもたないのでしょう。何故テレビで特集がされないのでしょうか。誰も何も知らないし、誰も何も持っていないからです。肉体の先の命について持っているのは、神様だけです。

3)思い煩うことなく、神様の前に豊かに 
 イエス様は、あなたちは、空の烏よりも、野の花よりも実に美しい、実に素晴らしいとおっしゃっているのです。神様は烏も養い、野の花も装ってくださっているのだから、あなた方にはなおさらだ、と。皆さん神様の前に豊かになってください。神様の前に重荷を下ろしてください。神の教会は、神様の前に全ての重荷を下ろして、裸になって、空っぽになって、神様の愛と御言葉でいっぱいにしてくださるためにあるのです。ところが思い煩いが多くて、私たちの魂、心は塞がれています。神様の恵みが入るすきもない。神様の前に重荷を降ろし、神様の恵みを受けてください。