2019年3月10日 朝礼拝 『神を試してはならない』大賀幸一牧師

申命記6:10‐19、ルカ福音書4:1‐13

1)石をパンに 
 悪魔と呼ばれる存在が登場し、イエス様を試みます。神の子であるなら、石にパンになるよう命じたらどうか。イエス様は悪魔の語る言葉通りに行動しません。イエス様が行動する基本は、神様の御言葉です。イエス様は、申命記8:3のみ言葉を逆に悪魔に示しました。人間は、たとえ空腹だからと言って、悪魔の言葉に従って行動することはあってはなりません。人間が生まれ、生きて行く中で聞いて従って行くべきは、ただ神様の御言葉です。悪魔の言葉に支配されている人間の行動は、石をパンに変えることです。それが如何に不自然で、世界の法則に反しているかが示されています。ここでイエス様は、必ず御言葉によって、悪魔と戦っていることに、私たちは気づかされます。イエス様は、この様に書いてある、とおっしゃっています。ご自分の言葉を語っているのではないのです。どのような時も、イエス様から出て来る言葉は、神様の御言葉なのです。

2)私を拝むなら 
 悪魔の第2の試みは、マタイ福音書と異なっています。マタイの3番目の試みが、ルカの2番目の試みとなっています。イエス様にとって、人間世界が神様のもとに戻ることは宿願です。しかし、そのためにイエス様が悪魔を拝むなら、神様が創造された世界は皆悪魔のものになってしまうのです。イエス様は、私たちが礼拝するのは主なる神様だけであると断言されました。私たちは悪魔の言葉から、人間世界は、悪魔に任されているという事実を知ります。人間世界を支配しているのは、神様の愛ではなく、悪魔のまがい物の言葉だということです。神様を信じる者たちはこのことを覚え、気をつけなければなりません。そしてイエス様は、今回も、聖書の言葉で戦われます。既に聖書に記されている神様の御言葉です。私たちが読むことも、聞くことも出来る神様の御言葉が私たちに既に与えられている事を知りましょう。

3)神を試してはならない 
 悪魔の第3の試みは、イエス様に神様を試せ、ということです。かつてイスラエルの出エジプトの出来事で、マサと呼ばれた土地がありました。神の民たちは、荒野を旅しています。飲み水の不足を訴え、モーセと争いました。神の民たちは、本当に神様は私たちと共におられるのかを疑い、試したという出来事が起こったのです。マサと呼ばれる土地で起こった出来事は、繰り返されてはならない出来事とされています。人間が、神様を試みる、それは、悪魔が語る言葉なのです。先週よりレントに入っています。イエス様が掛けられた十字架を見て、人間たちは、そこから降りて来たら、御前を信じてやろうと、言っています。神様を試すとは、こういうことです。イエス様が十字架から降りることなどありません。イエス様が十字架から降りる時、それは、全てを人間のために奉げた時です。悪魔は人間が神様に愛されるだけの資格のない存在であるかを立証しようとしているのです。イエス様がどんなに血を流しても、人間はそれに見合うだけの価値のある存在ではない、と悪魔は言うのです。イエス様はご自分の全てをもって私達を守るために、十字架に上げられたのです。神様がいつも私達とも共にいるかを、見失っているのです。それが、神様を試してはならない、と言われていることです。神様の愛を人間が試して、それを証明することができるでしょうか。そのようなことは出来ませんし、必要もありません。神様は、御言葉をもって私たちが生きる道を与えてくださっています。イエス様を与えてくださって、いつも私たちを守ってくださっています。