2019年4月14日 朝礼拝 『父よ、御心のままに』大賀幸一牧師

イザヤ56:1-8、ルカ22:39-53

1)本日は棕梠の主日です。
 今日のルカ福音書には、イエス様と弟子たちがオリーブ山に向かわれたとあります。そこには、イエス様と弟子たちとが、いつもの様に祈る場所がありました。誰にもいつもの様に祈る場所があるようです。時にはお風呂で、台所で、電車の中で、様々ないつもの祈りの場所があります。先週、私たちの教会に、梅花中学の新1年生が新入学オリエンテーションのためいらしてくださいました。梅花中学の子たちは人生2回目の礼拝でした。キリスト教系の学校ではこどもたちと礼拝を守ることを続けています。こどもたちとの礼拝で人気があるのが沈黙の祈りの時です。現代の私たちの生活の中で、沈黙が大切な意味があります。沈黙の中で、神様が私たちに語りかけてくださる何かを感じて欲しいと願っているのです。

2)誘惑に陥らないように祈りなさい 
 イエス様は弟子たちに、誘惑に陥らないように祈っていなさい、と求めています。しかしイエス様が祈って、戻って来ると、弟子たちは眠っていました。悲しみの果てに眠っていた、と表現されています。弟子たちにどんな悲しみがあったのでしょうか。弟子たちの悲しみの原因は、イエス様の祈りと私たちの祈りの差です。イエス様に求められたように、弟子たちは誘惑に陥らない、試練を乗り越えてイエス様と一緒に祈り続けているのですが、イエス様の祈りは、遥か先にあるのです。イエス様は祈りの中で、この杯を取り去ってくれるように祈っています。しかし、私の願いではなく、神様の御心のままに行ってください、と祈っています。イエス様が祈る、神様の御心のままにとは、ゴルゴタの丘へと行く道、侮辱され、蔑まれ、死刑囚として十字架にかけられる道のことです。わたしたち神様を信じる者たちは時に、神様の御心に委ねることを祈ります。それがどのようなことか私たちは理解しているでしょうか?とても私たちにはイエス様が進まれるところまで行くことは出来ません。悲しみの果てに眠り込んでしまうのです。では何故イエス様は、血の汗を流して祈られたのでしょうか。それは、私たちがイエス様の祈りを知るためなのです。

3)起きて祈っていなさい 
 私たちは今もイエス様の祈りに守られています。慰められ、励まされています。イエス様の祈りの中から聞こえる、神様の御声に包まれているのです。しかし、イエス様を裏切るもの、引き渡す者が近づいて来ます。それは、イエス様と共に歩んで来たのに、やはりどうしても神様に従えない人間の姿です。どこかで神様に従えない私たち自身が、イスカリオテのユダの姿で現れて来るのです。聖書は、人間の罪について教えています。罪とは、的外れなことだと言われています。いつの間にか私たちの思いは神様の御心から外れて、ずれてしまっているのです。神様の前に祈る時、何か私たちの言葉を持って祈ろうとするより、まずは神様の前に沈黙して、神様の御声を聞くことが私たちの祈りではないでしょうか。祈るべきことは聖霊が教えてくださいます。私たちは神様の前に沈黙して、神様が与えてくださる祈りを奉げれば良いのです。神様が与えてくださる祈りに、私たちは大いに慰められ、気づかされ、導きを受けます。今も私たちは、イエス様がゲッセマネで祈ってくださった祈りに守られていることを知るでしょう。イエス様と共に多くの神様に従う人々が流した祈りに囲まれていることを知るでしょう。さあ、暗闇が迫って来ます。しかしこの暗闇は永遠でないことを知るでしょう。闇の力は終わり、光りに溢れる時がやって来ます。