2019年4月28日 朝礼拝 『メシアは苦しみを受け栄光へ』大賀幸一牧師

列王記下7:1-16、ルカ24:13-35

1)エルサレムから60スタディオン
 神様を信じるということは、どんどん神様に愛されて、私たちの中に神様の愛が積み重なって行く、本当にそんなことならどんなにか良いかと思います。実際には少々違うようです。エルサレムから60スタディオン離れたエマオという町に二人の人は出かけます。出かけたというよりは、エルサレムを離れたと言えます。失望、希望を失ったのです。イエス様は殺され、死んでしまったからです。残された弟子たちにも失望したのです。イエス様こそ、と大きな希望を持って従って来た多くの人々は、イエス様を失うということを経験させられるのです。聖書が示している私たちの信仰の道は、私たちが信じている神様を失う、イエス様を失うという経験をキリスト教は要求するのです。ここがキリスト教の分かりにくさです。神様を失う、イエス様を失って、弟子たちはどうなるのか。エルサレムを離れて行くものもある。エルサレムの家に閉じこもって怯えているものもある。少なくとも誰も見えていないのです。

2)目は遮られていた 
 クレオパたちには、もうだめだと思われたのです。しかし、イエス様は、クレオパたちと一緒に歩いているのです。もちろん目は遮られていたのでイエス様と知ることはありません。私たちにも同じようなことがあるのではないでしょうか。神様を信じられない、神様が見えない。分からない、という事があります。私たちからは見えなくても、神様から私たちが見えないことはありません。イエス様が共に歩いてくださっていても、私たちには見えないのです。しかしイエス様は私たちと共に歩いているのです。でもイエス様が共に歩いていてくださることが分からなければ、私たちは前に進めません。希望の光を失ってしまったのですから、私たち目は遮られて見えなくなってしまったのです。

3)メシアの苦しみ 
 なぜイエス様は失われたのか、そこで問題となって来るのが、“メシアの苦しみ”ということです。メシアは、神様が遣わしてくださる私たちの救い主です。私たちの救い主は、私たちのために苦しむのです。私たちのために耐え忍んでいます。私たちのために命まで失ってしまいます。ですから私たちのイエス様は、私たちの前から失われて行くのです。私たちが愛する神様は、イエス様は、信じられない人間を怒り、痛めつけ、苦しめるのではありません。私たちの目が神様を見つけられない時、イエス様を見ることから遮られている時、正にその時こそ、神様は私たちのために苦しんでくださっているのです。それはすべて私たちのために、私たちの命のためです。神様の忍耐が、イエス様の苦しみが、私たちの命を作り上げているからです。私たちはこのことに気づかなければなりません。イエス様が見えないではなく、イエス様は私たちと一緒に歩いてくださっています。
4)パンを裂いてお渡しに  二人の目が開かれる時があります。ゲストであるはずのイエス様が自らパンを裂いて二人に渡された時です。それは教会で行われている聖餐につながることですが、私たちはいつもイエス様が裂いて与えてくださるパンでこの自分たちの命が養われている事を覚えるのです。私たちの毎日の命を支えてくださっているのは、神様です。今日も、神様が与えてくださる恵みで、私たちの命は養われているのです。命が養われた時、二人の目は開かれました。