2020年6月21日 朝礼拝 『御子から注がれた油』大賀幸一牧師

ハバクク書2:4、ヨハネⅠ 2:22-29

1)終わりの時が来ています 
 今日はヨハネの第1の手紙が与えられました。2章18節に、こどもたちよ、終わりの時が来ています。と記されています。キリスト教会はその時代を終わりの時と見なしていたことが分かります。私たちはこの終わりの時を、世界の破滅と勘違いしていることが多いですが、終わりの時とは、神様の審判の時を意味しています。実はこれまで何度も神様の審判がありました。ノアの洪水、モーセの時代、イスラエルの王国の滅亡の時も、そしてイエス様の時も終わりの時だったのです。それでも人間世界は滅亡せず続いているのは何故かというと、神様が赦して、愛してくださっているからです。しかし終わりの時、神様の審判は行われました。神様に愛されながら、神様の愛を受け入れない人々は滅びて行きました。そして神様によって残された者たちが、人間世界を担い続けているのです。

2)偽り者とは 
 終わりの時に、神様の審判が行われることは間違いありません。そこで審判されるのは、私たちが、偽り者であるかどうかです。偽り者とは、22節にありますように、イエス様がメシア、キリストであることを否定する者です。もちろんこれは、一度神様によってイエス様を示され、イエス様を信じ愛する者となった人たちにおいてのことです。それで、ヨハネの第1の手紙は、御子を公に言い表す者は御父に結ばれています、と教えています。また24節に、初めから聞いていたことがあなたがたの内にいつもあるならばあなたがたも御子の内に、御父の内にいつもいるでしょう、と教えています。つまり、神様を信じて、神様に、イエス様に留まりなさい、と教えているのです。終わりの時、私たち神様を愛して来た者たちが審判されるのです。私たちは本当に神様の内に留まっているだろうか?神様の御声を聞いて、それに従っているだろうか、と審判されるのです。もちろん私たちは今でも弱さがあり欠けがあり、足らない所があります。それが悪いのではなく、当たり前のことです。だからこそ私たちは、神様が私たちを満たし、イエス様によって教えられ、導かれて歩んで来たのです。そんな私たちでも、いつしか神様の御声を聞いていない時、聞こえなくなっている時がないでしょうか。それは私たちの人生にとって大変重大な命の問題です。時々私たちの信仰生活もメンテナンス、点検が必要なのです。私たちは今神様とイエス様の内に留まっているだろうか?私たちは、神様の御声が聞こえているだろうか、と。

3)御子から注がれた油 
 その時に私たちが思い出さなければならないことが、24節の初めから聞いていたこと、です。ヨハネの手紙が繰り返し語っていることです。私たちに大切なことは、神様が最初から私たちに語り聞かせてくださっている。最初に与えられている、ということです。何か不十分が起こったように後から付け加えられることはありません。私たちの信仰、命にとって必要なことは、神様が最初に示され、与えられているのです。イエス様は私たちに油を注いでくださいました。この場合、油というのは、神の霊、聖霊のことです。この油が万事について教え、導いてくださいます。私たちに必要なことは、神様とイエス様の内に、私たちが留まっているかどうか、このことを大切に保ち、愛する兄弟姉妹たちと歩み続けることです。