2020年10月11日 朝礼拝『裸のままではおりません』大賀幸一牧師

ダニエル書12:1-3 コリントの信徒への手紙Ⅱ5:1-10

 3節「それを脱いでも、裸のままではおりません」。実は、口語訳では「それを着たなら、裸のままではいないことになろう」とあり、脱ぐのではなく、着ると表されています。聖書協会共同訳は「それを着たなら、裸ではないことになります」。着る、脱ぐ、着る、と変わって来たのです。では、着るのか、脱ぐのか、いったいどっちでしょうか?脱ぐのは、地上の住みか、肉体を脱ぐということでしょう。着るとは、神様がご用意くださる永遠の住みかを着る、ということです。4節「地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に呑み込まれてしまうためです」、とあります。天の神様がご用意くださる永遠の住みかを、何とかこの今ある体の上に重ねて着たいからなのです。これもすべて神様が出たことです。神様は、私たちに脱がせたいのではなく、永遠の住みかを私たちに着せたいのです。さて、脱ぐにしても着るにしても、ひたすら神様に喜ばれるものであること、これが私たちの目指すところだとパウロは示しています。その理由は、誰もが最終的に神様の裁判の場に立ち、自分たちがどのように生きて来たのか審判を受けることになるからです。しかし、神様がイエス様を私たちに遣わし、私たちを赦し、愛するためにイエス様の十字架が示されたのではなかったでしょうか。しかし私たちが神様の前に立つべき時は必ずやって来るのです。すでに私たちは神様によって赦され、愛されていることが全ての人々に示され、認められるために誰もが神様の前に立つ時が来るのです。ただ心配することは何もありません。神様の愛と約束を信じて、全てを神様に任せて、委ねてください。この様になるのにふさわしい者にしてくださったのは、他ならぬ神様だからです。私たちに大弁護者イエス様を遣わし、聖霊を通して私たちを導かれます。この様にしてくださったのは神様です。