2022年9月25日 朝礼拝『記念として語り伝えられる』大賀幸一牧師

申命記15:1-11 マルコによる福音書14:1-9

  過ぎ越しの祭りが始まろうとしている頃ユダヤの祭司長、律法学者は、計略を用いてイエス様を逮捕しようと画策しています。イエス様たちは、ベタニア村のシモンの家で食事をし、ある出来事を起こっています。非常に高価なナルドという植物から取られた香油がイエス様のために献げられました。周りの人たちは、無駄なこと、もっと有効な活用があったはずだなどと女性のなさったことを痛烈に非難しています。イエス様を十字架につけ、殺したのは誰か?この質問に対して、私たちは、ユダヤの祭司長、律法学者と答えることもできるし、イスカリオテのユダの裏切りと答えることもできます。いやイエス様の弟子たちは皆イエス様を裏切ったということも。そして遂には、イエス様を十字架につけたのは、私たちではないか、誰もがイエス様を見捨てて逃げ出し、イエス様を十字架につけたのだ、と言えることを私たちは知ってしまいました。人々もイエス様を愛そうとしない祭司長たちと変わりはしません。イエス様に献げることを喜びとしません。感謝もありません。ただ無駄だ、無用だとするばかりです。イエス様は、この人は、わたしの埋葬のために準備をしてくれたのだとし、わたしに良いことをしてくれた。自分の出来る限りのことをしてくれた、とイエス様はこの女性をほめてくれたのです。もちろん、彼女の名前さえも聖書には公表されていません。彼女が祭司長たちや弟子たちと何か違うかと言うと何も違わないでしょう。しかし、私たちがまねるべき人は、この人ではないでしょうか。イエス様の苦しみをこの人は見つめていました。イエス様は人間世界の苦しみ、死の世界を背負って、死を突き抜けてしまわれました。私たちも京都丸太町教会も、イエス様とご一緒に人間世界の弱さを苦しみを、そして死を越えて歩んで行きましょう。私たちの出来る限りのことをなして行きましょう。