2022年10月2日 朝礼拝『取りなさい、これは私の体』大賀幸一牧師

出エジプト記12:21-27 マルコによる福音書14:10-25

イエス様と弟子たちは、この過越の祭りの食事をエルサレムのある宿屋でいたしました。その時、イエス様は重大なことを話し始められました。それは、裏切りです。一緒に食事をしているものの一人がイエス様を裏切ろうとしている。イスカリオテのユダは、祭司長たちにイエス様を引き渡すことを約束していました。“引き渡す”、そして一緒に食事をしているものたちの“裏切り”、どちらも同じ言葉が使われています。その意味するところは、そのままであり、そしてイエス様の死です。イスカリオテのユダだけがイエス様を裏切ったのではなく、弟子たちの誰もがイエス様への裏切を持っていたことは明らかです。弟子たちは、次々とイエス様に尋ねています。イエス様を裏切るのは私の事でしょうか、と。弟子たちの誰もが、自分がそうなのではないかと疑ったのです。人間たちは、繰り返し、神様を裏切り、すべてを失ってしまいました。人間の始まりから、人間は神様を裏切り続けて来ました。しかしそれで終わりではありません。神様は何とか人間たちが失ったものを取り戻す道を建ててくださって来たのです。どんな方法があるでしょうか?それは、神様を信じられない人間が、神様を信じることです。何度裏切っても、私たちが神様を信じること、それだけが私たちが全てを取り戻す道なのです。それを神様は赦し、与えてくださいます。聖餐は、まるで私たちの裏切りを前提にしているように思えます。私たちがイエス様を信じられず、裏切っているのに、それでもイエス様は私たちに、取りなさい、と。私たちの命を養うために、イエス様はご自分の命を差し出しておられます。何度となく神様を信じられなくても、裏切っても、繰り返し、私たちを信じるものへと導いてくださいます。神様を信じることが、私たちの失ったものを取り返すこと、神様との契約のために必要だからです。信じられない私たちが信じられるように、ご自分を献げてくださったイエス様の命を取ってください。イエス様によって与えられた契約を受けてください。