2023年5月21日 朝礼拝『しかし、疑う者もいた』大賀幸一牧師

エゼキエル書43:1-7C マタイによる福音書28:16-20

  弟子たちはイエス様が指定された山に登り、そこで復活されたイエス様と出会ったのです。しかし、疑う者もいた、と記されています。誰が疑ったのでしょうか?これが私たち人間なのだと聖書は示しておられるのです。復活の主イエス様を前にしてもまだ疑いの中にある弟子たちを描いているということは、これが真実であるということではないでしょうか。イエス様と出会っても、信じ従っても、イエス様の復活を信じられない人間の真実なる姿が描かれています。そして、それで構わないとマタイ福音書は、この人間の姿を、疑う者としての人間の姿を認めているのです。これが復活の主イエス様と再スタートした弟子たち、人間たちの真実なる姿である、と示されているのです。しかし、疑う者もいた、これがイエス様と私たちのガリラヤからの再スタートです。復活の主イエス様は、弟子たちの、そして私たちの中のこの疑いをご存じの上で、私たちとガリラヤの山で出会い、新たなる出発をしてくださいました。もちろん目指すべきところがあるのです。それは、私たちが、イエス様の復活を確信し、私たちも復活させられる、ということです。復活の主の前でも疑いを持つ私たち人間がどうやってそこにまで至ることが出来るのでしょうか。それこそが、神様の御業なのです。神様が信じられない復活が信じられない。疑いを止められない私たちが、神様を信じるようになる、復活を信じるようになる、それこそが神様の御業、神様の御手が働く以外にどうしてそんなことが起こり得るでしょう。人間の知恵と力が辿り着くのは、しかし、疑う者もいた、そこまでです。そこから先へ進ませてくださるのは、神様がおられるからです。神様の御手が働いているからです。神様の愛と御言葉がなせる御業です。