2023年8月27日 朝礼拝『イエスの衣にふれて』石川立教師

申命記8:1-3 マタイによる福音書9:18-26

 接触は様々な動詞で表されますが、〈ふれる〉という行為は特別です。人がふれるとき、ふれる人とふれられた人とのあいだに相互のいのちの交流が生まれます。また、ふれるという行為で開かれてくる世界は、日常世界を超え、すべての物がふれるということで響き合う世界です。その世界においては、人と人とが真にふれ合い、ことばのいのちや神の愛と真にふれ合うことができます。

 世間では、ふれ合いに依存するよりも、自立した強い人間であるほうがよいとされています。これに対して教会はふれ合いを必要とする人たちの群れです。人とのふれ合い、ことばのいのちとのふれ合いを私たちは切に求めています。

 マタイ福音書9章に出てくる〈長血を患う女性〉は、十二年間、出血が止まらず、「汚れているもの」として社会的に排除されていました。経済的にも身体的にも宗教的にも恵みから遠い状態にありました。彼女はふれ合いたいけれども、誰ともふれ合うことのできない人です。たまたまイエスが通っていくのを見て、この女性は藁にもすがる思いでイエスの衣の裾にふれました。ここに、イエスと長血を患う女性とのふれ合いが成立し、このふれ合いによって癒しの世界が広がります。

 私たちもイエスにふれたい、衣の裾でもいいのでふれたいと思います。神の口から出た神のことばが肉となりイエスとして私たちの間に住まわれたと聖書は教えてくれています。その神の言葉を聖書が包んでいるので、聖書はイエスが身にまとっておられる衣です。その聖書をさらに包んでいるのが教会で語られる言葉であり、これはイエス・神の言葉の衣の裾です。

 私たちも教会の言葉にふれるのであれば、それは単なる衣の裾にすぎませんけれども、イエスとの生きたふれ合い、神のいのちとの交流が生じます。そこに癒しと赦しの世界、解放と自由の世界が披かれます。そのことを信じて、私たちは聖書の言葉、教会で語られる言葉にふれたいものだと思います。